歴史・古典コーナー(1回目)・・・・・・紀尾井町
 
赤坂から青山通りを渡って弁慶橋を渡ると、左手にホテル・ニューオオタニ、右手に東京ガーデンテラス紀尾井町(旧赤坂プリンスホテル跡地、赤プリで有名)が見えてくる。このエリアが紀尾井町で歴史上重要な場所である。
1、弁慶橋
弁慶橋だとどうしても平安末期に活躍した僧兵の武蔵坊弁慶に因んだ名前と思いがちですがが、違うようで江戸時代、江戸城の普請に携わった大工の棟梁・弁慶小左衛門が架けた橋からとった名前らしいです。
2、紀尾井町
本HPの街44の「赤坂1」の18枚目の写真の説明、「紀尾井の名前の由来は徳川幕府の紀伊・尾張・井伊の三家の中屋敷が隣接していたことによるとか。この辺りは幕末、明治の歴史を語る上で重要な場所の一つらしいです。」
 紀伊家は紀州藩、尾張家は尾張藩、井伊家は彦根藩(近江の国)の主家に当たる。
 紀州藩、尾張藩は御三家ですが、 もう一つはおわかりでしょうか?
水戸黄門(徳川光圀)で有名な水戸藩です。徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜を輩出した藩でもあります。徳川家の一族で男系男子の子孫が始祖で徳川姓を名乗る藩を御三家と呼びます。徳川家康以降代々の将軍を継承するのは秀忠の系統が主であるが、何らかの事情で後継者がいない場合は、尾張、紀州、水戸から輩出するはずであるが、なぜか格上の尾張藩からは一人も出ていない。
徳川家康の息子たちがそれぞれの藩の祖になっている。
徳川藩・・・秀忠(三男、2代将軍)、尾張藩・・・義直(九男)、紀州藩・・・頼宣(十男)、水戸藩・・・頼房(十一男) 御三家を 藩の分類では親藩とも呼ばれている。

 井伊家の彦根藩は藩の分類では譜代大名と呼ばれている。 関ヶ原の戦い以前から代々(譜代))家来として仕えた藩(大名)。
最後の一つに外様大名 がある。関ヶ原の戦い前後に新しく徳川幕府の家臣になった大名。外様大名は、戦略上江戸及び関東、京都、大阪、東海道周辺の重要な要地にはおかなかった。名前が示す通り中心要地から外にあるという意味。
 ではなぜ御三家ではない井伊家が紀尾(紀州、尾張)と並び称されたか?幕末の大老の井伊直弼が絶大な権力を握って、当時の江戸を動かしていたことによる。現在、井伊家の跡地あたりにホテルニュータニが建っている。

・このあたりで1878年(明治11年)、大久保利通暗殺事件が起きた。不平士族6名によって刺殺された。(紀尾井坂の変
・井伊直弼は安政7年(1860年)紀尾井町近くの桜田門外で暗殺されている。(桜田門外の変

(加筆)
※井伊直弼の独断による幕政に不満を持つ水戸浪士らにより殺害される。
原因
①将軍跡継ぎ問題 ・・・・有力大名のた薩摩藩主島津斉彬や水戸藩主徳川斉昭などは、有能な一橋慶喜(水戸徳川家出身で一橋家に養子に出されていた)を支持していたが、井伊直弼は徳川本家と血が繋がっている徳川慶福を支持していた。→大老に就任するとに徳川慶福(後に改名して家茂)を独断で第14代将軍に決めてしまう。
②大老に就任すると朝廷に無断で不平等条約の日米修好通商条約を締結してしまう。
③安政の大獄・・・幕政に反対する人々を次々に苛烈に弾圧、処罰する。(獄舎、死刑、遠島、謹慎処分、永久蟄居、左遷・・・)

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