▲歴史・古典コーナー(第11回)  大和朝廷9
「有間皇子の悲劇(1)全3回

はじめに
 壬申の乱から遡ること14年前、母親である斉明天皇が皇位についてはいたが実質的に政権を握って朝廷を動かしていたのは中大兄皇子(後の天智天皇)である。中大兄皇子は政権安定、自身の皇位継承の障害になる、次期皇位継承者の最有力候補の有間皇子を日頃から危険視し罠に嵌め殺害したとされている。(※天智天皇(中大兄皇子)が政敵として殺したとされているのは、蘇我入鹿、古人大兄皇子(異母兄)、蘇我倉山田石川麻呂、有間皇子です。)
日本書紀には父・孝徳天皇及び有間皇子の悲劇の経緯が記述されているが、有間皇子が後世にまで人々の心に記憶を留め、悲劇の皇子として語り継がれているのは、万葉集に有名な短歌二首が残されているからである。
罠に嵌められ、捕らえられ、尋問のために護送される途中で詠んだ二首の死をも覚悟したこころの叫びが多くの人々の心を打ち、後世までも語り継がれている。

・磐代(いはしろ)の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む

・家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
(解釈は3で)

有間皇子関連の系図

   
父、孝徳天皇(軽皇子)、母、小足媛(父:阿部倉梯麻呂)

父の孝徳天皇と皇極(斉明)天皇(女帝)は兄妹

皇極天皇-舒明天皇 (夫婦)→子供:中大兄皇子、間人皇女(孝徳皇后)、大海人皇子

従兄弟同士の皇位継承争い

有間皇子VS中大兄皇子

◎父、孝徳天皇の悲運
☆皇位の譲り合い・・・舒明天皇が崩御された後、誰が皇位を継ぐかでそれぞれの立場の思惑により譲り合いがあった。

皇極天皇は「位(みくらゐ)を中大兄に伝へむと思欲して、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、云々(しかしか)のたまふ。中大兄、退(まかりい)でて中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)に語りたまふ。中臣鎌子連、議(はか)りて曰(まを)さく、「古人大兄は殿下(きか)の兄(え→異母兄)にして、軽皇子(かるのみこ=孝徳天皇)は殿下の舅(をぢ)なり、方今(いま)し、古人大兄在(ま)します。而(しか)るを殿下、陟天皇位(あまつひつぎしらしめ)さば、人の弟(おと)として恭遜(つつしみしたが)ふ心に違(たが)はむ。舅を立てて、民(おほみたから)の 望(ねがひ)に答(かな)
はば、亦可(またよ)からずや」とまうす。」(日本書紀)

 中臣鎌子の助言に従い中大兄皇子は皇位を辞退し古人大兄皇子か軽皇子に譲位してくださいと皇極天皇に申し出ると、皇極天皇は軽皇子に皇位を譲ろうとされるが、軽皇子は再三固辞して、古人大兄皇子は舒明天皇の御子、年長であることを理由に古人大兄皇子が天皇にふさわしいと申し出た。

すると古人大兄皇子は、「座(しきゐ)を避(さ)り逡巡(しりぞ)き、拱手(こうしゅ→両手を胸の前で合わせて敬礼すること)して辞(いな)びて曰(まを)さく、『天皇の聖旨(おほみこと)に奉順(うけたまはりしたが)はむ。何ぞ労(いたは)しくして臣(やっこ)に推譲(ゆず)らむ。臣願(ねが)はくは、出家して吉野に入(い)り、仏道を勤修(つとめおこな)ひて、天皇を祐(たす)け奉らむことを』とまをす。」(日本書紀)


 古人大兄皇子は、辞退し終わると、佩刀(はいとう-刀を腰に帯びる)を解いて地面に投げ捨て、舎人達全員にも刀を解かせた。法興寺の仏殿と塔の間に詣でて、髪と髭を剃り、袈裟を着た。仏門に入ってしまった。

「軽皇子、固辞(いな)ぶること得(え)ずして、檀(たかみみくら)に升(のぼ)りて即祚(あまつひつぎしらしめ)す。」 軽皇子は断り切れなくてしかたがなく皇位につくことになった。孝徳天皇が誕生した。

☆孝徳天皇の新政権の布陣
皇極天皇・・・皇祖母尊(すめおやのみこと) 中大兄皇子・・・皇太子(ひつぎのみこ)
左大臣・・・阿倍内麻呂臣 右大臣・・・蘇我倉山田石川麻呂臣
大錦冠・・・中臣鎌子連(中臣鎌足)
国博士・・・沙門旻法師(しゃもんみんほふし)、高向史玄理(たかむこのふびとげんり)

645年(大化元年) 初めて元号を立てた。
いわゆる大化の改新と言われる改革が孝徳天皇の御代に行なわれた。
主な改革については、本雑記の「’19年秋」の歴史・古典コーナー(第5回)
大和朝廷3-大化の改新 に書きましたので参考にしてください。ここでは省略します。

☆645年12月、都を難波長柄豊碕(なにはのながらのとよさき)と定めるも実際に孝徳天皇が造営中の新宮に移ったのは651年(白雉二年)であり、造営が完成したのは翌年の九月である。その間、孝徳天皇は難波周辺の幾つかの仮宮などに滞在されたらしい。(書紀には小郡、大郡との表記あり)

なぜ 都を難波長柄豊碕に定めたか?・・・・港(難波津)に近い立地は、唐、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅との外交、及び日本と関係の深い任那(みなま)諸国との連絡をするうえで重要である。迎賓館としての役割も持たせている。他国と戦争になった時、素早く対応もできる(軍船の出発)。孝徳天皇の御代には、頻繁に高句麗、百済、新羅からの朝貢及び派遣の記述あり。

☆孝徳天皇と皇太子である中大兄皇子の軋轢(中大兄皇子の勝手な振る舞い)
653年(白雉四年)、中大兄皇子が倭京(やまとのみやこ)に移りたいと孝徳天皇に申し出る。

「是の歳、太子(ひつぎのみこ=中大兄皇子)奏請(まを)して曰(まを)さく、『冀(ねが)はくは倭京に遷らむ』ともをしたまふ。天皇、ゆるしたまはず。皇太子、乃(すなは)ち皇祖母尊(すめみまのみこと=皇極上皇)・間人皇后(はしひとのきさき=孝徳天皇の妃)を 奉り、併せて皇弟等(すめいろどたち)を率(ゐ)て、往きて倭飛鳥河辺行宮(やまとあすかかはへかりみや)に 居(ま)します。時に公卿大夫(まへつきみたち)・百官の人等(ひとども)、皆随ひて遷る。天皇、恨みて国位(くにのみくらゐ)を捨(さ)りたまはむと欲(おもほ)し、宮(おほみや)を山碕に造らしめたまひ、乃ち歌(みうた)を間人皇后に送りて曰(のたま)はく、

金木着け(かなきつ) 吾が飼ふ駒は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか

とのたまふ。」 

※金木・・・金属のように堅い木、頸木(牛馬の首の後ろにかける横木)と馬小屋の柵の横木の2説がある。駒は妻の間人皇后をたとえている。
(訳)金木を着けて逃げ出さないよう飼っている大切な馬、外に引き出さないで大切に飼っている馬を、人はどうして見つけ出したのであろうか (誰が盗み出したのであろうか?)

※中大兄皇子は孝徳天皇の制止を無視して、皇極上皇、弟の大海皇子をはじめ、公卿、百官、更には孝徳天皇の妃の間人皇女まで引き連れて飛鳥の行宮に遷ってしまった。妻にまで見捨てられた孝徳天皇は激しい怨念を抱いた。
間人皇后は中大兄皇子の実妹(同母)ではあるが、中大兄皇子と相思相愛である学説がある。国文学者の吉永登、歴史学者の直木考次郎らの説、「日本の歴史2」(中公文庫)。否定する見解もある。

☆孝徳天皇の病気、崩御
654年(白雉五年)、
「冬十月癸卯の朔(一日)に、皇太子(ひつぎのみこ=中大兄皇子)、天皇病疾(すめらみことみやまひ)したまふと聞きて、乃(すなは)ち皇祖母尊(すめみまのみこと=皇極上皇)・間人皇后(はしひとのきさき=孝徳天皇の妃)を 奉り、併せて皇弟・公卿大夫(まへつきみたち)を率(ゐ)て、難波宮に赴(まゐおもぶ)きたまふ。」
壬子(十日)、天皇、正寝(おほとの=正殿)に崩(かむあが)ります。・・・・・・
十二月・・・大坂磯長陵(おほさかしながのみさざき)に葬(はぶ)りまつる。

※現在、孝徳天皇陵とされている古墳は直径約30mの円墳で小さい。ないがしろにされている感が強い。
孤独のうちに亡くなった孝徳天皇の無念、怨念を15歳になっていた有間皇子は当然感じていたことだろう。中大兄皇子はやはり皇位を継がず、母・皇極上皇が重祚して斉明天皇として再び天皇の位を継いだ。孝徳天皇亡き後の政治情勢と有間皇子の悲劇は後編で。

主な参考文献:「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「日本書紀(3)-新編日本古典文学全集」(小学館)、「日本の歴史2」(中公文庫)、「天の川の太陽-黒岩重吾」(中央公論社)、「万葉悲劇の中の歌―金子武雄」(公論社)、「万葉のふるさと-清原和義」(ポプラ社)、「文芸読本 萬葉集-山本健吉編」(河出書房新社)、「萬葉百歌-山本健吉、池田弥三郎」(中公新書)、「愛とロマンの世界-万葉の歌ひとたち-伊藤栄洪」(明治図書)他

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