▲歴史・古典コーナー(第12回)
大和朝廷9 「有間皇子の悲劇(2)

☆皇極天皇は孝徳天皇が崩御されると、斉明天皇として再び即位(重祚)

「 元年の春正月壬申の朔にして甲戌に、皇祖母尊(すめみおやのみこと-斉明天皇)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)に即天皇位(あまつひつぎしらしめ)す。」・・・・・・・・・・・・
☆宮殿・諸施設の建造と狂信・独善的に大規模な土木工事を強行する斉明天皇

「是の歳(斉明二年、656年)に、飛鳥の岡本に更に宮地(みやどころ)定む。・・・・遂に宮室(おほみや)を起(た)つ。天皇(すめらみこと、乃ち遷りたまひ、号(なづ) けて後飛鳥岡本宮(のちのあすかのをかもとのみや)と曰(い)ふ。田身峯(たむのみね-多武峯のこと)に、冠(かが)らしむるに周垣(めぐれるかき)を以ちてす。・・・・・復(また)、峯の上の両槻樹(ふたつのつき)の辺(ほとり)に(かん)を起(た)て、号(なづ)けて両槻宮(ふたつきのみや)とし、亦(また)天宮(あまつみや)と曰(い)ふ。
※多武峯の頂上に石垣で囲った道教の寺院(観-物見台)らしき建物を造り、両槻宮或いは天宮と称した。ここの部分、神仙思想、不老長寿の道教に傾倒していることを思わせる記述である。
※皇極天皇元年八月の記事に皇極天皇(斉明天皇)道教への傾倒を覗わせる興味深い雨乞いの記述がある。雨が降らず大干ばつが続き、何人かの高僧に祈祷させるも効果なく、蘇我蝦夷が登場していろいろな雨乞いの行法を行ったが悉く失敗する。皇極天皇(斉明天皇)が最後に雨乞いの行を行う。
「八月の甲申の朔(つきたち)に、天皇、南淵の河上(飛鳥川の上流)に幸(いでま)して、跪(ひざまづ)きて四方(よも)を拝(をろが)み、天(あめ)を仰ぎて祈りたまふ。即ち雷(いかづち)なりて大雨(ひさめ)ふる。遂に雨ふること五日、天下(あめのした)をあまねく潤す。・・・・・是(ここ)に、天下の百姓(おほみたから)、倶(とも)に万歳(よろずとせ)と称(よろこびまを)して曰(まを)さく、『至徳(いきほひ)ましまます天皇なり』とまをす」

「時に、事を興すことを好みたまひ、すなはち水工(みずたくみ)をして渠(みぞ-溝)を穿(ほ)らしめ、香山 (かぐやま)の西より石上山(いそのかみやま)に至る。舟二百隻(せき)を以ちて、石上山の石を載(つ)みて、流(みづ)の順(まにま)に宮の東(ひむかし)の山に控引(ひ)き、石を累(かさ)ねて垣とす。時人(ときのひと)謗(そし)りて曰く、「狂心(たぶれこころ)の渠。損費(おとしつひや)すこと、功夫(こうふ)三万余。損費すこと、造垣功夫(かきつくるこうふ)七万余。宮材(みやのき)爛(ただ)れたり。山椒(やまのすゑ-山頂)埋れるたり」といふ。又謗りて曰く、「石の山丘を作り、作る随(まにま)に自づから に破(こは)れなむ」といふ。・・・・・又吉野宮を作る。」

※斉明天皇の狂信的な大規模な土木事業の状況と工事に駆り出された労働者、民衆の不満・怒り・揶揄が描かれている。
※なぜ12キロ(香具山-石上山間、岩波版日本書紀頭注)もある堀(水路)を大勢の工夫に掘らせて、大量の石を舟で運ばせ、更にはその石を積み重ねて巨大な石垣を造らせたか?謎である。上段の神仙思想、不老長寿、道教と関係があるのかも知れない。高齢になり長寿を願う気持ちが強くなってきたとも考えられる。 


☆有間皇子が気狂いを装う
「 九月に、有間皇子、性點(ひととなりさと-悪賢い)くして陽狂(いつはりたぶれ-狂人をよそおう)す、云々(しかじか)。牟婁温湯(むろのゆ)に往(ゆ)き、療(をさ)むる 偽(まね)して来(まゐき)、国の体勢(なり)を讃(ほ)めて曰く、纔(ひただ-わずかに)彼の地(ところ)を観るのみに、病自づからに蠲 消(のぞこり-除かれる、病気が治る)ぬ」と云々(しかしか)いふ。天皇、聞(きこ)しめして悦びたまひ、往(おは)しまして観(みそこなは)さむと思欲(おもほ)す。」

※有間皇子を悪賢いとはずいぶんな書きようではある。気狂いを装う、牟婁温湯に入って病気療養をしたふりをし、天皇に牟婁温湯の湯治を勧める、留守を狙って謀反を計画した・・・一連の行動から性點(ひととなりさと-悪賢い)くしての表現になったのかも知れない。

☆有間皇子、蘇我赤兄の罠に堕ちる
「十一月の庚申の朔にして壬午(三日)に、留守の官(つかさ)蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)、有間皇子に語りて曰く『天皇(すめらみこと)、治(し)らす政事(まつりごと)に三失(みつのあやまち)有。大きに倉庫(くら)を起(た)てて、民財(たみのたから)を積聚(つみあつ)む、一つなり。長く渠水(みぞ)を穿(ほ)りて、公糧(おほやけのくらひもの)を損費(おとししや)す、二つなり。舟に石を載せて、運び積みて丘にす、三(みつ)なりといふ。有間皇子、乃ち赤兄が己(おのれ)に善(うるは)しきことを知りて、欣然(よろこ)びて報答(こた)へて曰く、『吾が年始めて兵(いくさ)を用ゐるべき時なり』(-私はこの年になってやっと兵をあげるときが来た)といふ。」
※この時有間皇子御年19歳
※赤兄を信じ切った有間皇子が挑発に乗って、ついが挙兵の本心を明かしてしまう件(くだり)

「甲申(五日)に、有間皇子、赤兄が家に向き、楼(たかどの)登りて謀(はか)る。夾膝(おしまづき-脇息)自づからに断(お)れぬ。是(ここ)に、相(しるまし-前兆)の不祥(さがなきこと-不吉なこと)を知り、倶(とも)に盟(ちか)ひて止む。」
※有間皇子が赤兄の家に出向き、謀反の謀議の最中、脇息の脚が折れてしまう。不吉な前兆におののいて誓い合って謀議を止めてしまう。※本文の「盟(ちか)ひて」は謀議したことを他言しない、謀議はなかったことにしようと言うことであろう。

☆有間皇子の屋敷が赤兄の手勢によって包囲される
「皇子帰りて宿る。是の夜半に、赤兄、物部朴井連鮪(もののべのえのゐのむらじしびを遣し、造宮(みやつく)る丁(よぼろ)を率(ひき)ゐて、有間皇子を市経(いちふ)の家に囲(かく)ま しめ、便(すなは)ち、駅使(はゆま)を遣わして、天皇の所(みもと)に奏(もを)す。」
※赤兄はたぶん計画通り素早く動き、有間皇子の家を宮殿を造る人夫(公用に駆り出された作業員)たちに包囲監禁させ、早馬で事の顛末を天皇に連絡させた。

☆有間皇子、捕縛され紀温湯に護送される。
「戊子(九日)に、 有間皇子と守君大石(もりのきみおほは)・坂合部連薬(さかひべのむらじくすり)・塩屋連鯯魚(しほやのむらじこのしろ)を捉(とら)へ、紀温湯(きのゆ)に送りたてまつる。舎人新田米麻呂(とねりにひたべのこめまろ)、従(みとも)なり。」
※紀温湯は前掲の牟婁温湯と同じで斉明天皇一行が有間皇子の勧めで湯治に来ていたが、
有間皇子が謀反の意ありとにらんだ中大兄皇子はこの時を利用して赤兄にけしかけて前出の一連の絵図を描いたのかも知れない。

☆中大兄皇子による尋問と有間皇子の応答
「是に皇太子(ひつぎのみこ-中大兄皇子)、親(みづか)ら有間皇子に問ひ曰(のたま)はく、『何の故に謀反(みかどかたぶ)けむとする』とのたまふ。答へて曰(まを)さく、『天(あめ)と赤兄と知らむ。吾(あれ)全(もは)ら解(し)らず』とまをす」。
※有間皇子の赤兄に裏切られ、罠に嵌められた悔しさがにじむ。

☆有間皇子と舎人らへの刑罰
「庚寅(十一日)に、丹比小沢連国襲(たぢひのをざはのむらじくにそ)を遣はして、有間皇子を藤白坂(ふじしろさか)に絞(くび-絞首)らしむ。是の日に、塩屋連鯯魚・舎人新田連米麻呂を藤白坂に斬る。 塩屋連鯯魚、臨誅(ころさ)れむとして言はく、『願はくは、右手をして国の宝器(たからもの)を作らしめよ』といふ。守君大石を上野毛国に、坂合部薬 を尾張国に流す。」
※当時の律では有間皇子の絞首よりも塩屋連鯯魚・舎人新田連米麻呂の斬首の方が刑罰としては重い。

※赤兄が有間皇子に斉明天皇の三失(三つの政治の失敗)批判についての解釈には、三説がある。
中大兄皇子が有間皇子を陥れて抹殺するために赤兄に指示して、有間皇子に親しげに語らせて挑発させ謀反を仕向けさせた。
②赤兄が単独で中大兄皇子に取り入るため 有間皇子を挑発して謀反を仕向けた。
③赤兄も斉明天皇(バックには中大兄皇子)の政治に不満をいだいていて、有間皇子に同調しようとしたが、後で考えを翻し裏切った。
①が有力視されている。

主な参考文献:「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「日本書紀(3)-新編日本古典文学全集」(小学館)、「日本の歴史2」(中公文庫)、「日本の道教遺跡-福永光司、千田稔、高橋徹」(朝日新聞社)、「天の川の太陽-黒岩重吾」(中央公論社)、「万葉悲劇の中の歌―金子武雄」(公論社)、「万葉のふるさと-清原和義」(ポプラ社)、「文芸読本 萬葉集-山本健吉編」(河出書房新社)、「萬葉百歌-山本健吉、池田弥三郎」(中公新書)、「愛とロマンの世界-万葉の歌ひとたち-伊藤栄洪」(明治図書)他

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