▲歴史・古典コーナー(第15回)
大和朝廷13 「大津皇子・大伯皇女」(2)

◎壬申の乱(672年)の6年後(679年)の夏、天武天皇は皇后(後の持統天皇)と六人の皇子たちを連れて五月に自分にゆかりのある懐かしい吉野に行幸している。日本書紀の天武天皇紀の五月の記述

☆吉野の盟約

「五月の庚辰の朔甲申(五日)に、吉野宮に幸(いでま)す。乙酉(六日)に、天皇、皇后と草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河島皇子・忍壁皇子・芝基皇子・に詔して曰はく、「朕、今日、汝等と倶に庭(おほばー宮廷)に盟ひて、千歳の後に、事無からしめむと欲(おもほ)す。奈之何(いかに)」とおたまふ。皇子等、共に対へて曰さく、「理実(ことわり)、灼然(いやちこ)なりとまをす。則(すなは)ち草壁皇子尊、先ず進みて盟ひて曰さく、「天神地祇(あまつかみくにつかみ)と天皇、証(あきらめ)たまへ。吾、兄弟長幼(えおとひととなりおさなき)、幷(あは)せて十余王(とをあまりのみこ)、各(おのもおのも)異腹(ことはら)より出(い)でたり。然れども同じきと異れると別かず、俱に天皇の勅の随に、相扶けて忤(さか)ふること無けむ。若し今より以後(のち)、この盟(ちかひの如くにあらずは、身命(いのち)亡び、子孫(うみのこ)絶えむ。忘れじ、失(あやま)たじ」とまをす。五皇子(いつたりのみこ)、次を以ちて相盟(あひちかふ)こと、先の如し。然(しか)して後に、天皇 の曰はく、「朕(わ)が男等(ども)、各異腹にして生まれたり。然れども今し一母同産(ひとつおもはらから)の如くに慈まむ。」とにたまふ。則ち襟(ころものくび)を披(ひら)き其の六皇子(むたりのみこ)を抱(うだ)きたまふ。因りて盟ひて曰はく、「若し玆(こ)の盟に違はば、忽ちに朕が身を亡(うしな)はむ」とのたまふ。皇后の盟ひたまふこと、且(また)天皇の如し。」

※天武天皇が自分が死んだ後、(自分が壬申の乱で大友皇子皇子を死に追いやったことを念頭に)皇子たちが皇位継承で決して争うことのないように願って、皇子たちにお互い助け合って仲良くしていくことを誓約させた場面。→後に天武天皇が危惧していたこと(大津皇子の悲劇)が起きるが。

☆日本書紀には大津皇子の謀反の記述 (再掲)
天武天皇の朱鳥元年(西暦686年)九月の記述
「丙午(九日)に、天皇(天武天皇)の病、遂に差(い)えずして、正宮(おほみや)に崩(かむあが)りましぬ。戌申(十一日)に、始めて発哭(みねー哀しみの儀式)たてまつる。即ち殯宮(もがりのみやー本葬の前に棺に入れ一定期間、死者の霊を鎮め、故人を偲ぶための建物)を南庭(おほば)に起(た)つ。辛酉(二十四日)に、殯(もがり)し、即ち発哭(みねー哀しみの儀式)たてまつる。
是(こ)の時に当たりて、大津の皇子、皇太子(ひつぎのみこー草壁皇子のこと)を謀反(かたぶ)けむとする」 (天武紀)

☆1、謀反に関しての具体的な内容の記載が皆無

唐突に大津の皇子が謀反を起こしたとありますが、是の時とは具体的にいつなのか、謀反とあるだけで、謀反の意志を誰かに語り、どんな計画で、賛同協力者は誰で、どんな準備をしたか、当日の行動等、具体的な内容が何も記されていない不可解な記事です。
「有間皇子の悲劇」では赤兄に嵌められたとは言え、皇子の不満、謀反の意志が描かれています。そのあとの経過(自宅包囲、捕縛→大和から護送→牟婁温泉(紀の湯、現在の白浜温泉)で尋問→ 処刑されることなく再び大和へ向けて北上して護送→藤白坂で絞首) も書かれています。
朝廷の転覆を謀る謀反なのに具体的な内容が何も記されていないのは、実は大津皇子は謀反を画策なんかしていなくて、持統天皇が息子の草壁皇子をいずれ天皇にするためには有能で人望がある大津皇子を除くため陰謀で抹殺したのではないかと考えられます。
(学会の定説)

懐風藻には大津皇子に謀反を扇動したのは新羅沙門行心らしいことと密告したのが川嶋皇子らしいことが書かれています。
懐風藻(751年成立、日本最古の漢詩集、編者は三船淡海)

◎大津皇子の伝記に謀反をそそのかしたのは新羅沙門行心らしい記述

「時に新羅僧行心(ぎやうしん)といふもの有り、天文卜筮(ぼくぜい)を解(し)る。
皇子に詔(つ)げて曰はく、「太子の骨法(こつぽう)、是れ人臣の相にあらず、此れを以(も)ちて久しく下位に在らば、恐るらくは 身を全くせざらむ」といふ。因りて逆謀を進む。此の註誤(くわいご)に迷ひ、遂に 不軌(ひき)を圖(はか)らす。嗚呼(ああ惜しき哉(かも)。彼(そ)の良才を蘊(つつ)みて、忠孝を以ちて身を保たず、此の姧豎(かんじゅ)に近づきて、卒(つひ)に戮辱(りくじょく)を以ちて自ら終ふ。古人の交遊を慎みし意(こころ)、因りて以(おもひみれば深き哉(かも)。時に二十四。」

※「皇子の相は普通の臣下の相ではない、このまま下位に甘んじていたら、皇子の本来の相にある能力を発揮出来ないまま終わってしまう」の行心の扇動(欺きの甘言)に迷いながらついに謀反を決意する。

◎川嶋皇子の伝記に密告したのは川嶋皇子らしい記述

「皇子は、淡海帝の第二子なり。志懐温裕、局量弘雅。始め大津皇子と、莫逆の契(非常に親密な間柄)を為しつ。津(大津皇子)の逆を謀るに及びて、島(川嶋皇子)則ち變を告ぐ。朝廷其の忠誠を嘉みすれど、朋友其の才情を薄みす。議する者未だ厚薄を詳らかにせず。然すがに余以為(おも)へらく、私好を忘れて公に奉ずることは、忠臣の雅事、君親に背きて交を厚くすることは、悖徳(はいとく) の流(たぐひ)ぞと。但し未だ爭友(さういう)の益(かが)を盡さずして、其の塗炭 に陥るることは、余も亦疑ふ。位淨大參に終ふ。時に三十五。」

※二つの記述に日本書紀と同様具体的な謀反の内容は書かれていない。

☆2、大津皇子の逮捕から処刑があまりにも早い
☆大津皇子の逮捕と刑死及び連座したらしい者の逮捕

「冬十月の戊辰の朔にして己巳(二日)に皇子大津の謀反(みかどかたぶ)けむこと発覚(あらは) れぬ。皇子大津を逮捕(から)め、幷(あは)せて皇子大津が為に註誤(あざむ)かえたる直広肆八口朝臣(ぢきくわしやぐちのあそみ)音橿原(おとかし)・小山下壱岐連博徳(せうせんげいきのむらじはかとこ)と、大舎人中臣朝臣臣麻呂(おほとねりなかとみのあそみおみまろ)・巨勢朝臣多益須(たやす)・新羅沙門(しらきしゃもん)行心(かうじむ)と帳内礪杵(とねりときの)道作(みちつくり)等、三十余人を補(から)む。庚午(三日)に、皇子大津を訳語田(をさた)の舎(いへ)に賜死(みまからし)む。時に年二十四なり。妃皇女山辺(みめひめみこやまへ)、被髪(かみをみだ)して、奔赴(はしりゆ) きて殉(ともにみまか)る。見る者皆歔欷(ひとみなすすりな)く」→この後に、すぐ☆3の記述が続く。

※逮捕して翌日には処刑している。当然大津皇子及び連座した者への尋問、取り調べのための相当な日数が必要な筈、陰謀であるとすると逮捕・処刑を早くしないと噂が広がり持統天皇側への批判、抗議が広がる恐れがある。

☆3、謀反人で刑死された大津皇子への不思議な賛辞

「皇子大津は、天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと=天武天皇)の第三子なり。容止墻岸(ようししょうがん)にして、音辞俊朗(おんじしゅんろう)なり。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと=天智天皇)の為に愛(めぐ)まれたまふ。長(ひととなる)に及(いた)りて弁(わきわき)しく才学有(さいがく)ましまし、尤も(もと)も文筆(ぶんぴつ)を愛(この)みたまふ。詩賦(しふ)の興り、大津より始まれり」
※簡単に言うと
天武天皇の第三子で、立ち居振る舞いが立派で、言葉に優れ、明晰である。天智天皇に可愛がられ、成長されると分別があり学問の才能に恵まれ、特に文章を書くのを好まれ、詩賦(中国の韻文=漢詩)の興隆は大津皇子から始まった。

◎賛辞をのせることによって、上掲の山辺妃皇女の殉死の記述と相まって、有能で人望があった大津皇子の不本意、悲運、理不尽な死への慰撫、哀悼、抗議の意が込められているように思えてならない。下に載せた草壁皇子の死の記述と読み比べると一層。(私見)

※懐風藻にも伝記に似た記述がある。
「皇子は、淨御原帝の長子なり。状貌魁梧(じやうばうくわいご)、器宇峻遠(きうしゆんゑん)。幼年にして學を好み、博覧にして能く文をつづる。壯(さかり)に及びて武を愛(この)み、多力にして能く劍を撃つ。性頗(すこぶ)る放蕩にして、法度(はふど)に拘(かかは)れず、節を降して士を禮 (ゐや)びまふ。是に由りて人多く附託す。」

※簡単に言うと
皇子は天武天皇の長男である。体格に恵まれ、度量が大きく志が高く奥深い、幼少より学問を好み、博学で文章を能く綴られた。成長されて武芸を好み、力が強く剣をよく使われた。性質は規則には縛られず自由闊達であり、身分をヘリ下り、人々には礼儀正しく厚く接しられた。ために多くの人々が付き従った(人望があった)。

◎草壁皇子の死の記述
「皇太子(ひつぎのみこ)草壁皇子尊薨(かむさ)ります」とだけあるだけで大津皇子への賛辞のような記述はない。
◎有間皇子への見方
「 九月に、有間皇子、性點(ひととなりさと-悪賢い)くして陽狂(いつはりたぶれ-狂人をよそおう)す、云々(しかじか)。・・・・」
有間皇子は性質が悪賢くて、偽って狂人になったふりをして・・・とある。大津皇子のような賛辞はない。

☆4、連座したらしい者への処罰が寛大で軽い
丙申に、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「皇子大津、謀反(みかどかたぶ)けむとす。註誤(あざむ)かえたる吏民(つかさひと)・帳内(とねり)は已むこと得ず。今し皇子大津に坐(かか)れるは、皆赦すべし。但し、礪杵(とねりときの)道作(みちつくり)は伊豆に流せ」とのたまふ。又詔して曰はく、「新羅沙門行心(しらきのしゃもんかうじむ)、皇子大津の謀反けむとするに与(くみ)せれども、朕(われ)加法(かみ)するに忍びず。飛騨国の伽藍(てら)に徙(うつ)せ」とのたまふ。

・ 礪杵(とねりときの)道作(みちつくり)は伊豆に遠島
・新羅沙門行心は飛騨国の寺に移す。
二人以外は皆許され、処罰なし。

「有間皇子の悲劇」での舎人への刑罰は重い(斬首)
丹比小沢連国襲(たぢひのをざはのむらじくにそ)を遣はして、有間皇子を藤白坂(ふじしろさか)に絞(くび-絞首)らしむ。是の日に、塩屋連鯯魚・舎人新田連米麻呂を藤白坂に斬る


星印1から4により、大津皇子が謀反を起こしたのではなく、持統天皇が息子可愛さから草壁皇子をいずれ(その間は自分が称制して天皇に)天皇にするためには有能で人望がある大津皇子が邪魔で皇子を陰謀で抹殺したのではないか。
☆何かの折りに誰かにふと朝廷への不満を漏らした、自分の身の不遇(母・大田皇女の死)を漏らした、伊勢にいる斎宮の姉の大伯皇女に会いに行ったことなどが格好の謀反の口実にされたのかも知れません。


次回は、大津皇子、大伯皇女の歌の解釈です。

主な参考文献:「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「日本書紀(3)-新編日本古典文学全集」(小学館)、「懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋-日本古典文学大系」(岩波書店)、「折口信夫全集四、二十四巻」(中央公論社)、「死者の書ー折口信夫」「死者の書・身毒丸ー折口信夫」(中公文庫)、「萬葉集注釈ー沢瀉久孝」(中央公論社)、作者類別年代別萬葉集(森本治吉、沢瀉久孝ー藝林社)、「日本の歴史2」(中公文庫)、「天の川の太陽-黒岩重吾」(中央公論社)、「万葉悲劇の中の歌―金子武雄」(公論社)、 、「万葉の虚構 ―古文芸の会」(雄山閣)、「万葉のふるさと-清原和義」(ポプラ社)、「文芸読本 萬葉集-山本健吉編」(河出書房新社)、「萬葉百歌-山本健吉、池田弥三郎」(中公新書)、「文法全解・万葉集・大久保廣行」(旺文社)、「新明解・万葉集、古今集、新古今集」(三省堂)、「万葉集選釈・尾崎暢殃」(加藤中道館)「愛とロマンの世界-万葉の歌ひとたち-伊藤栄洪」(明治図書)他

index   home  

(C) Katumasa Ohbayashi