▲歴史・古典コーナー(第3回)
大和朝廷1(形成期~発展期まで)
①大和朝廷の誕生
縄文時代、弥生時代、古墳時代と時代が進むにしたがって、豪族、氏族間の幾多の抗争及び合従連衡を経てようやく3世紀末~4世紀の初め、日本を統一国家として治め始める畿内豪族の政治連合が現れました。それが大王(おおきみ、だいおう)を首長とする大和朝廷(ヤマト王権、大和王権、ヤマト政権、大和政権との呼称も)です。※大王は後に天皇と呼ばれるようになる。
創成の本拠地は奈良盆地(大和盆地)の東南部の三輪山付近、奈良時代(平城遷都)になるまで続きました。いろいろな事情により遷宮が度々がおこなわれました。
②古墳
最近世界遺産登録候補として仁徳天皇陵を含む「百舌鳥・古市古墳群」が話題になりました。仁徳天皇陵の巨大な前方後円墳の存在は強大な権力を持っている大王が君臨していたことを表しています。大和朝廷の時代は古墳時代でもあります。
7世紀末になると仏教の影響で有力豪族や支配層の間に火葬が広がり古墳が次第に造られなくなっていった。これ以降、有力豪族及び支配者が権力を誇示するのは寺院や建築の建設に移行していく。
・古墳の種類
方墳-円墳-前方後方墳-前方後円墳
小←---権威、権力----→ 大
③氏姓制度(大和朝廷の政治制度)
氏・・・・大和朝廷を機能・維持・発展させるためには大王の臣下になった有力豪族の協力、活躍が必要になってきます。共通の祖先をもち、名前を同じくし、氏神(祖先神)を祭る有力豪族の同族血縁集団を氏(うじ)といいます。
氏の首長を氏上(うじのかみ)、氏の構成員を氏人(うじびと)という。彼らの生活を支えた隷属民の部民(べみん)、各家々の奴婢であるヤッコがいた。
姓(かばね)・・・氏に身分・政治的地位・家柄 ・職掌などを表す姓を与え、朝廷に組み入れていった。
・姓の種類
臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたい)・造(みやつこ)・首(おびと)・別(わけ)・史(ふひと)・村主(すぐり)など。
臣と連は特に朝廷内で重要な要職にあった。臣姓の氏は大和での地名を氏としてかつて大王一族に敵対していた豪族でもある。平群臣、葛城臣、蘇我臣、巨瀬臣など。→→蘇我臣のように娘を大王家に嫁がせて姻戚関係を結んで地位を安定させ、権力を増大させていった。連姓は政権内での職掌を氏の名前にしている。中臣連(祭祀)、大伴連、物部連(軍事)
④ 部民制度(べみん、大和朝廷の人民支配制度)
大和朝廷の経済的、軍事的基盤で下位の民衆が労役、兵役、奉仕、貢納で支える制度 。
・品部(しなべ、ともべ)・・・大和朝廷に奉仕する職業的集団。土師部(土器製作)、錦織部(にしごりべ、錦の織物製作)、韓鍛冶部(からかぬちべ、、渡来系の銅鉄器製作)、陶部(すえべ、須恵器製作)、弓削部(ゆげべ、弓の製作)、矢作部(矢の製作)、馬飼部(うまかいべ、馬の飼育、調教)、史部(ふみべ、記録・文章の作成)、忌部(いんべ、祭祀をつかどった)など。各品部の首長が伴造(とものみやっこ)、氏人たちを伴(とも)と呼んだ。
・名代、子代の部(なしろ、こしろ)・・・大王家直属の部民で大王家の食事、身の回りの世話、護衛、養育などをした。
⑤私有地(直轄領)、私有民
・朝廷の直轄領→屯倉(みやけ) 、豪族の私有地→田荘(たどころ)
・部曲(かきべ)・・・有力豪族(氏)の私有民で大伴部、蘇我部、物部などのように、氏の元で奉仕、貢納を行った。
⑥対外交渉(中国、朝鮮)
・倭の五王・・・421年~502年まで13回にわたって、讃(さん)・珍(弥)(ちん・み)・済(さい)、興(こう)、武(ぶ)と呼ばれている倭の五王が中国の南朝に朝貢している(「宋書の倭国伝)。宗の皇帝から高い称号を得て国内統一と対朝鮮半島外交を有利に進めようとした。
武の提出した上表文に対して宗の皇帝は「武を使時節都督倭・( )・新羅・加羅・秦韓、慕韓六国軍事安東大将軍倭国王」に叙している。武が自ら名乗った時の( )の部分→百済が除外されている。百済がすでに宗の皇帝に朝貢し認められて独立国であることを意味している。
この間の天皇は応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略の7天皇で
武だけは雄略天皇とほぼ確定されている。他の天皇は諸説があり確定していない。
理由:稲荷山古墳出土鉄剣銘文(埼玉県)の「獲加多支鹵」大王(ワカタケル)が
雄略天皇の大初瀬幼武(おおはつせワカタケル)(日本書紀)、大長谷若建(オオハッセワカタケル)と酷似。
江田船山古墳出土鉄刀銘文(熊本)の「獲□□□鹵」大王もワカタケルと解釈されている。
☆1、この頃大和朝廷が中国とは従属的関係にあり、朝鮮とは何らかのかかわりを持ち、戦いをしたりしていることがことがわかる。(詳しくは次回以降で)
2、この頃すでに大和朝廷の支配→九州地方~東国地方まで及んでいる。
3、鉄製品の高度な製造技術の広範囲の広がり。
4、名前の部分は漢字の音訓を借りて読ませている。→万葉仮名のはしり
◎倭の五王の一人武・雄略天皇の万葉集の有名な和歌一首
天皇の御製歌(すめらみことのおおみうた)
籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべてわれこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも |
こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このおかに なつますこ いえきかな
なのらさね そらみつやまとのくには おしなべて われこそおれ しきなべてわれこそませ われこそは のらめ いえをもなをも
(訳)籠をさあ きれいな籠を持ってさあ へらをさあ かわいいへらを持ってさあ この岡に春の野の草を摘んでいらっしゃる娘さん 家がどこかお聞きしたい 名前をおっしゃい この大和の国はすべて一帯わたしが治めているのだよ わたしこそが治め従えているのだよ わたしからこそ まず告げようか
家も名前も
(語釈)・籠-春、野草や薬草を摘むときに使う竹や草木の蔓(つる)で編んだカゴ
・掘串-竹や木のへら ・み籠、み掘串-「み」は称詞で美しい、素晴らしいの意味
・児-女性を親しんで言う言葉 ・名告らさね-名前をおっしゃい 古代人は普段は通称名を使い本当の名前は秘密にしていて、求婚されたとき等重要な時以外は明かさないとされていた。家、名を教えることは求婚に応えることを意味する。
※本当の名前を明かさないのは古代信仰で呪詛されるのを嫌ってのことらしい。
・そらみつ-大和にかかる枕詞、語源的には「空見つ」「空満つ」あたりか。
・おしなべて―押しなびかせて、一面に従えて。すべてととる説も。
・われこそ座せ-わたしこそいらっしゃるのだよ 天皇が自分に尊敬語を使ったように見える例、天皇に仮託して編集した人物が天皇を敬って表現したものと思われる。
・われこそは-「われにこそは」と読む説もある。これだと娘さんに名乗らせることになる。
☆万葉集20巻の冒頭を飾るにふさわしい王者の風格があり、簡潔で直接的な表現の中におおらかな牧歌的な雰囲気が漂う。雄略天皇に仮託された歌で、宮中の中で歌い継がれてきた歌のようだ。
結婚はまさに子孫繁栄、土地の拡大、ひいては大和の繁栄、長久を意味し、20巻の冒頭に置かれたのは予祝的な願いが込められている。
参考文献:「中学歴史の発展的学習」、「理解しやすい日本史B」(文英堂)、「詳解日本史」(旺文社)、「図説日本史通覧」(帝国書院)、「ジュニア版日本の歴史1巻日本のなりたち」(読売新聞社)、「物語日本史上・平泉澄」(講談社学術文庫)、「日本の歴史1・井上光貞、日本の歴史・直木孝次郎」(中公文庫)、「愛とロマンの世界・伊藤栄洪」(明治図書中学生文庫)、「日本書紀上-日本古典文学大系」「古事記-日本古典文学大系」(岩波書店)(岩波書店)、「ヤマト王権と古代史十大事件・関裕二」(PHP文庫)、「折口信夫全集巻4・口訳万葉集・上」(中央公論社)、「万葉のふるさと・清原和義」(ポプラ社)、「文法全解・万葉集・大久保廣行」(旺文社)、「新明解・万葉集、古今集、新古今集」(三省堂)、「万葉集選釈・尾崎暢殃」(加藤中道館)、「万葉集注釋巻1・澤瀉久孝」(中央公論社)、「萬葉集・森本治吉校訂」(日本出版配給株式会社)、「万葉の旅-上・犬養孝
」(現代教養文庫)
(C) Katumasa Ohbayashi