▲歴史・古典コーナー(第5回)
 大和朝廷3-大化の改新
1、前回の「物部氏の滅亡により蘇我氏が大和朝廷での権力を掌中に入れることになる。蘇我氏独裁の始まりとなる。」の通り、蘇我氏の独裁、専横政治が極に達していきました。
☆蘇我氏の系譜・・・蘇我稲目-馬子-蝦夷(えみし)-入鹿
☆蝦夷・・・多くの人々に造らせたらせた自分の墓を陵(みささぎ=天皇の墓)と呼ばせり、自分の子の入鹿 を皇子と呼ばせたりした。
☆入鹿・・・皇極天皇の代に入ると入鹿の独裁・専横政治。
・従兄弟の古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)を次の天皇にするために、邪魔な存在の厩戸皇子(うまやどのみこ、後の聖徳太子)の子の山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)を襲って厩戸皇子の一族である上宮王家一族を滅ぼす。→→反蘇我勢力の反感、反発、危機感を招く。
古人大兄皇子(父・舒明天皇、母・蝦夷の妹の法提郎女・ほていのいらつめ)
山背大兄皇子(父・厩戸皇子、母・蝦夷の妹の刀自古郎女・とじこのいらつめ)

2、天皇家滅亡の危機感を感じて蘇我氏打倒の中心人物の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、鎌子と呼ぶことも)が行動を起こす。

二人の出会い 日本書紀の皇極天皇記(岩波古典文学大系日本書紀下P254)
「すなわち、心を中大兄に附くれど、さかり(離れていての意味)て未だその深き思いを展(の)ぶることを獲(え)ず、たまたま中大兄の法興寺の槻(つき、ケヤキ)の樹のもとに打毬(まりく)うるともがら(仲間)に加わりて、皮鞋(みくつ)の鞠のまま脱け落つるを候(まもり)て、掌中(たなごころ)に取りもちて、すすみて跪(ひざまづ)きて、つつしみて奉る。中大兄、むかい跪きて敬(ゐや)びて取りたまふ。これより、相(むつ)び善(よし)みて、ともに懐(おも)ふ所を述ぶ。」
(読みやすいように表現を若干変えてあります)

蘇我入鹿の暗殺・・・・乙巳の変(いっしの変)
 仲良くなった中大兄皇子と鎌足は蘇我氏打倒の計画を密談し、さらには蘇我一族の長老・蘇我倉石川麻呂の娘を中大兄皇子の妃にして、蘇我倉石川麻呂を仲間に引き入れた。
実行した場所・・・・皇極天皇の飛鳥板蓋宮の大極殿の庭
日時・・・・皇極四年(645年)、12日(戊申つちのえのさる)

(口語訳)
 6月8日、中大兄、密かに倉山田麻呂臣(蘇我倉石川麻呂のこと)に「朝鮮の三韓の使者が献上する日に必ずお前に表上文を読ませたい。」と伝える。そしてついに入鹿の殺害の策略を明かした。
 12日、皇極天皇は大極殿にお出ましになっていた。古人大兄もいらっしゃいました。
 中臣鎌足は、蘇我入鹿が猜疑心が強く、夜昼となく剣を身に着けているのを知って、おどけ役者に言い含めてうまく冗談を言わせて、剣を解かせた。入鹿は笑って剣を解いた。
大臣(おおおみ)の入鹿は所定の席につきました。
 倉山田麻呂臣は、(皇極天皇の)前に進みでて三韓の献上の表上文を読みました。
すると中大兄は衞門府(ゆげひのつかさ)の役人に、12の門を一時的に閉めさせ、往来ができないようにさせました。衞門府の役人を一箇所に呼び集めて、褒美を上げようとした。
 それから、中大兄は長い槍を自分で持って、大極殿の脇に隠れました。
 中臣鎌足漣(むらじ)達は弓矢を持って加勢のために待機しました。海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)に命じて、箱の中の二本の剣を佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かづらぎのわかいぬかいのむらじあみた)に授けて、「一瞬のうちにスパっと切り殺せ」と言った。
 子麻呂たちはご飯を水でかきこんでいたが、恐ろしくて吐き出してしまう。 中臣鎌足漣は叱咤激励しました。
 倉山田麻呂臣は表上文を読み終わろうとしているのに、子麻呂らが(入鹿を)討ちに来ないので恐れおののいて、流れ落ちてくる冷や汗で体中がびっしょりになり、声は乱れ手がわなわな震えだす。鞍作臣(くらつくりのおみ=蘇我入鹿)は、怪しんで「なぜ震えてわなないているのか?」と言う。山田麻呂は応えて、「天皇のお近くにいるのが畏れ多くて、不覚にも汗が流れ出ます。」と言いました。
 中大兄、子麻呂らが入鹿の威圧に恐れおののいて、ためらって討ちにいかないのを見て、「やあ!」と掛け声をお出しになるとすぐさま子麻呂らと一緒に、剣で入鹿の頭、肩を傷つけたたき割りました。入鹿は驚いて立ち上がりました。子麻呂は手で剣を拭いて、片足を斬りつけました。
 入鹿は天皇の座っていらっしゃる御座のところに転がり着いて、ひれ伏し哀願して、「まさに嗣位(ひつぎのくらい=天皇位)に居るべきは天子様です。私は罪を知りません。どうか正しい裁きをしてください。」と申し上げた。
 天皇はひどくびっくりして、中大兄に「私は何のことかわかりません。このようなことをするのは何かわけでもあるのですか?」と仰いました。  
 中大兄は地にひれ伏して、「鞍作は皇室を滅ぼして、天皇の位を傾けようとしています。どうして天孫が鞍作にとって代わることがありましょうか?」と申し上げました。(蘇我臣入鹿、またの名を鞍作)天皇はすぐ立ち上がり、大極殿の奥へ入って行かれた。
 佐伯連子麻呂・稚犬養連網田は、入鹿臣を斬り殺した。この日、雨が降って水が庭にあふれ出ていた。むしろで作った囲いで、鞍作の屍を覆った。
以下省略
※三韓・・・百済、新羅、高句麗
※本文は日本書紀の皇極天皇記(岩波古典文学大系日本書紀下P261~P263)によりました。意訳した箇所があります。

蘇我氏の滅亡 ・・・入鹿の父・蝦夷も家に火を放ち自殺した。稲目以来100年余り続いた蘇我政権が滅亡した。

大化の改新 ・・・皇極天皇が譲位して孝徳天皇(軽皇子、皇極天皇の弟)が即位する。
中大兄皇子は皇太子となりながら、引き続き天皇の代わりに政治を行っていた。これを称制と呼ぶ。
左大臣・・・阿部内麻呂、右大臣・・・蘇我倉石川麻呂 政策実行
内臣(うちつおみ)・・・中臣鎌足 政策顧問、アドバイザー、立案者
国博士・・・政策顧問、アドバイザー、中国留学経験の高向玄理(たかむこのげんり、
くろまろ)、僧侶の旻(みん)

・年号の制定・・・年号を大化とした。我が国、最初の年号。
・鐘櫃の制(かねひつ)・・・訴訟に不満がある者は鐘をつかせたり、投書をさせる。
・難波長柄豊碕宮(なにわながらとしょさきのみや)への遷都・・・今の大阪市
・薄葬礼(はくそうれい)・・・厚葬や殉死の禁止。
・男女の法・・・生まれた子の良と賤の区別
改新の詔・・・孝徳天皇が4か条の政治の根本方針を発布(646年-大化2)

原文、省略あり。日本書紀の孝徳天皇記(岩波古典文学大系日本書紀下P280)によりました。

其の一に曰く、昔在(むかし)の天皇等の立つる所の子代の民、処処の屯倉(みやけ)、及び別(こと)には臣・連・伴造・国造・村首(むらおびと)の所有(もて)る部曲(かきべ)の民、処処の田荘(たどころ)を罷(や)めよ。仍(よ)りて食封(じきふ)を大夫(まえつきみ)より以上(かみつかた)に賜ふこと各差(おのおのしな)有らむ。・・・・・
其の二に曰く、初めて京師(みやこ)を修め、畿内国司・郡司・関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はゆま)・伝馬(つたわりうま)を置き、及び鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。・・・・
※「関塞」は、関所、「斥候」は、見張りと警備、「駅馬」は官の用事で使う早馬 、「伝馬」は役人の往来などに使う馬、「鈴契」の、鈴は馬の使用の証明、契は関所の割符、いずれも通行するときの許可証に当たる。
「山河を定めよ」は、地方の行政区画を決めなさい。

其の三に曰く、初めて戸籍・計帳・班田収受の法を造れ。・・・・
其の四に曰く、旧(もと)の賦役(えつき)を罷めて田の調(みつき)を行へ。・・・・

①第1条・・・公地公民制(皇族・豪族の持っている私有地、私有民の禁止。国の所有とする公地・公民とした。上級役人には一定の領地である食封を与えた。
②第2条・・・中央・地方の行政区画を定め、軍事・交通制度を整え、中央集権制を敷く。
③第3条・・・戸籍・計帳(租税の台帳)をつくり、班田収授法を制定する。
※ 班田収授法は 6 年ごとに6歳以上の男女に身分や男女別に応じて一定の口分田を与える。
④第4条・・・新税制の実施(今までの労役による税制を廃止し、田の面積に応じた租税
の徴収方法
※其の二の「郡」は当時は「評」を使用していたことから改新の詔の真偽両論が出されている。①詔は歴史的真実。②後に修正や加工がされた。③後の全くの創作で後の幾つかの政令(飛鳥浄御原令、近江令、大宝令など)をもとにして作られた。定説は出ていない。

※其の二の畿内国司は或る高校の参考書は「畿内・国司」と表示していて理解に苦しんだが、原文を見ると畿内国司は一続きの言葉で、意味は畿内の国々の司ですんなり理解できます。

白村江(はくすき、はくそんこう)の戦い
日本とつながりの深い百済が唐と新羅の連合軍に攻められて、日本に救援を求めてきたに応じて中大兄皇子(母である斉明天皇の元で国政に当たっていた)は、軍勢を白村江に送ったが、大敗した。朝鮮半島から撤退することになる。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな (額田王の歌)

・熟田津・・・にぎたつと読む。愛媛県松山市の海浜、軍勢を百済救済のために送った時の歌。
・額田王が斉明天皇の命に応じて斉明天皇の気持ちを代弁して作った歌と言われている。
一説には斉明天皇の作とする説もある
・月待てば・・・月の出を待っていると ・潮もかなひぬ・・・海の流れもいい具合になった。
・今は漕ぎいでな ・・・さあ漕ぎ出していこう

天智天皇の即位と業績 ・・・・中大兄皇子は母の斉明天皇(前の皇極天皇-重祚ちょうそ)が亡くなっても、後継の斉明天皇の弟の軽皇子が孝徳天皇天皇として即位しても天皇の代わりに政治を行っていた。(称制

667年に孝徳天皇の死去に伴いようやく、翌年ようやく近江大津宮に遷都して即位する。天智天皇の誕生。在位668年~671年でわずか3年である。
・庚午年籍(こうごねんじゃく)・・・全国規模の初めての戸籍。民衆の基本台帳。永久保管。
・近江令の発布・・・中臣鎌足に命じて22巻を作らせる。
・白村江の戦いで大敗したことによる日本の防衛整備の構築
対馬・壱岐・筑前に防人・烽(のろし-連絡用ののろし)、筑前に水城(みずき)、対馬北九州・讃岐の屋島、大和などに防衛施設などを造り、整備した。

天智天皇の一番の功績は中臣鎌足とともに蘇我氏を倒して天皇家に政権を取り戻したことでしょう。

次回は、「壬申の乱」  

参考文献:「中学歴史の発展的学習」、「理解しやすい日本史B」(文英堂)、「詳解日本史」(旺文社)、「図説日本史通覧」(帝国書院)、「ジュニア版日本の歴史1巻日本のなりたち」(読売新聞社)、「愛とロマンの世界・伊藤栄洪」(明治図書中学生文庫)、「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「大化の改新」(中公新書)、「ヤマト王権と古代史十大事件・関裕二」(PHP文庫、)https://nihonsinwa.com/ の皇極天皇(27)「乙巳の変」、
「新明解古典シリーズ 万葉集 古今集 新古今集」(三省堂)他 

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