▲歴史・古典コーナー(第6回)
大和朝廷4
壬申の乱 (1回)全五回?
 壬申の乱は古代最大の内乱で資料があまりなく、まだ解明されてない部分、謎のめいた部分があります。壬申の乱の天武天皇(大海人皇子)が戦いの本陣を構えた関が原、不破関は戦国時代の有名な戦いである徳川家康と石田三成が覇権を争った関ケ原の戦いの舞台でもあり、興味深い古代最大の内乱です。

概略
天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまの皇子)との皇位継承をめぐる争いで、最終的には叔父の大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位する。甥の大友皇子は自殺に追い込まれる。

経過
 天智天皇が即位・・・668年に孝徳天皇の死去に伴いようやく即位し近江大津宮に遷都する。在位668年~671年でわずか3年である。ただ称制として約20年間、皇太子として実権を握っていた。
 大海人皇子は称制の中大兄皇子を補佐して、太政大臣に相当する地位にあり次の天皇は大海人皇子であろうとされていた。しかし天智天皇は病魔に襲われると政権の布陣を新たに定めた。

太政大臣・・・大友皇子  左大臣・・・蘇我赤兄   右大臣・・・中臣連金(こがね)
御史大夫(ぎょふだいふ、のちの大納言)・・・蘇我臣果安(はたやす)、巨瀬臣人(ひと)、紀臣大人(うし)

 これは大友皇子を中心にした政権で次期天皇は大友皇子に譲ることを示唆していた。
大海人皇子は蚊帳の外に追いやられてた格好で、兄の天智天皇が政敵をことごとく抹殺していく残忍さをひしひしと感じていたので、殺されるのを察知したのと今は天下取りの時期でないと判断したらしく、近江大津宮から退避することを決断。吉野宮に行き僧侶となり修行をすると宣言する。
※天智天皇(中大兄皇子)が政敵として殺したとされているのは、蘇我入鹿、古人大兄皇子(異母兄)、蘇我倉山田石川麻呂、有間皇子です。

 日本書紀の天武記(巻28)
「四年の冬十月・・・・天皇(天智天皇)、臥病(みやまひ)したまひて、痛みたまふこと甚だし。・・・・・是(ここ)に(蘇我臣)安摩侶 は、素より東宮(大海皇子)は好(よみ)したまふ所なり。密かに東宮を顧みたてまつりて曰さく、「有意ひて言へ」(こころしらひて、のたまへ 注意して言いなさい)とまうす。
東宮、ここに、隠せる謀有らむことを疑ひて慎みたまふ。天皇、東宮に勅(みことのり)して鴻業(あまつひつぎのこと-天皇の位)を授く。すなはち辞びて曰はく(もうしたま) 、「臣(やつかれ)が不幸(さいはひな)き、元より多(さは)の病有り。何(いかに)ぞよく社稷(くにいえ)を保たむ。願はくは、陛下(きみ-天智天皇)、天下(あめのした)をあげて皇后(きさき、天智天皇の妻の倭姫王)に附かせたまへ。 なほ、大友皇子を立てて、儲君(もうけのきみ-皇太子)としたまへ。臣は今日出家(いえで)して、陛下のために功徳(のりのこと)を修(おこな)はむ」とまうしたまふ。天皇、聴(ゆる)したまふ。その日に、出家して法服(のりのころも-僧侶の服)をきたまふ。
・・・・私の兵器(つはもの)を収(と)りて、悉に司(おおやけ)に納めたまふ。
 壬午(みづのえうまのひに吉野宮に入(い)りたまふ。
時に左大臣蘇我赤兄臣(ひだりのおおまへつきみ、そがのあかえのおみ)・右大臣中臣金連(かねのむらじ)、及び大納言(おほきものまうすつかさ)蘇賀果安臣(はたやすのおみ)等、送りたてまつる。菟道(うぢ―宇治)より返る。
或る人の曰く、「虎に翼を着けて放てり」といふ。

 要約すると、天智天皇は病が重くなると弟の大海人皇子を呼び寄せ、「次の天皇の位はお前に譲りたい 」と言うが、大海人皇子は何か謀略があるかも知れないと察知して、申し出を病気がちと国を治める能力に欠けることを理由に断り、皇后の倭姫王にしばらくの間、天皇の位にいていただき、大友人皇子を皇太子にして成長したら天皇になっていただきたい。私は出家して吉野宮で功徳を積みたい、と申し出て、武器を捨て吉野に向けて出発した。誰かが「虎に翼を着けて逃がしたようなものだ。いずれ大変なこと(戦い)が起こる。」

・乱の発端
大友皇子が天智天皇の墓の造営と称して密かに兵士を集めて戦闘の準備をしていると大海人皇子が舎人の一人から聞きつける。このままでは攻め滅ぼされてしまう。このまま滅ぼされてしまっていいのだろうかと、大友皇子率いる近江朝軍に戦いを挑んでいく決意をする。

 日本書紀の天武記(巻28)
「十二月(しはす)に天命開別天皇(あめのみことひらかすわけのすめらみこと-天智天皇のこ)崩(かむあが)りましぬ。
中略
 この月に、朴井連雄君(えのゐのむらじおきみ)、天皇(すめらみこと-大海人皇子、実際にはまだ即位していない。)に奏(まう)して曰さく、「臣(やつかれ-自分)、私の事有るを持って、独り美濃(みの-今の岐阜)に至(まか)る。時に朝庭(みかど-大友皇子の近江の朝廷)、美濃・尾張(今の愛知県の西側の地域)、両国(ふたつのくに)司(みこともち-国司)に宣(おほせこと)して曰(のたま)はく、『山稜(みささぎ-天智天皇の墓)造らむがために、予め人夫(おほみたから)を差し定めよ』とのたまふ。即ち人別(ひとごと)に兵を執らしむ。臣(やつかれ)思はく、山稜を造るには非じ、必ず事有らむと。若し早(すみやか)に避りたまはずは、當に危きことあらむか。」とまうす。
或いは人有りて奏(まう)して曰さく、「近江京(あふみのみやこ)より、倭京(やまとのみやこ-飛鳥)に至るまでに、處處に候(うかみ-斥候のことで監視役)を置けり。また菟道の守橋者(はしもり)に命(おほ)せて、皇大弟(もうけのきみ)の宮の舎人(とねり-下級官人)の私粮(わたくしのくらひもの-食糧)を運ぶ事を遮(た)へしむ」とまうす。・・・・・天皇、悪(はばか-恐れ慄いて)りて、因りて問ひ察(あきら)めして、事の既に実(まこと)なるを知りたまひぬ。
ここに、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(われ」、位(みくらゐ)を譲り世を遁るる所以(ゆゑ)は、独り病を治め身を全くして、永(ひたぶる)に百年(ももとせ)を終へむとなり。然るに今、已(や)むこと獲ずして、禍(わざはひ)を承けむ。何(いか)にぞ黙る(もだ)して身を亡ぼさむや」とのたまふ。

日本書紀は天武天皇が命じて編纂された書物なので、往々にして天武天皇側に立って、天武天皇の主張、行動の正当性を認める文飾・潤色がなされているという学説があり、この部分も壬申の乱は大友皇子側の原因(戦争準備)で仕方なく大海人皇子が応じた風に文飾、潤色されている節があるのかもしれません。

・不破道の封鎖 ・・・・大和、近江、畿内から東国へ抜けるには必ず通らなければならない道、生活、経済活動、軍事上重要な道(関)。美濃、尾張、さらにはその先の東国地方の農民、兵士を集めやすい。この道を大海皇子が押えたのが大きい。

672年6月22日 美濃に村国連男依(むらくにむらじおとこより)、和珥部臣君手(わにべのおみきみて)、身毛君広(むぐつきみひろ)を呼んで美濃の安八磨評(あはちまのこおり)の湯沐邑(ゆのむら-大海人皇子の直轄領)に急行させた。
湯沐邑の管理長官の多臣品治(おほおみほむぢ)に、周辺の地域から兵士を集め、
不破道(不破の関)を封鎖させるよう命じた。


吉野を出発 ・・・・直轄領・湯沐邑(ゆむら)がある美濃に向けて出発する。同行者は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ-大海人皇子の妃で後の持統天皇)、草壁皇子、忍壁皇子(おさかべのみこ)、朴井連雄君を初めとして舎人ら20数人、女官10数人。

 672年6月24日  舎人を遣わして、駅鈴(うまやのすず-官馬が乗れる許可証)を倭古京の監視役人の高坂王に求めさせたが許可されず、徒歩で出発する。
近江朝廷側に見つかったら万事休すで、大海皇子の壬申の乱に於ける最大の危機であったのかも知れない。 駅鈴を求めに行ったら近江朝廷側に大海人皇子一行の美濃行きが知られてしまうので不可解な謎めいた描写のようだ。

美濃行きルート 記事、要約も載せました
・甘羅村(かむらのむら、「20人ぐらいの猟師に出会って、一行の仲間に加える。」

・菟田(うだ)郡(こほり-この時代は「評」が正しい)、「湯沐(ゆ)の米を運ぶ伊勢国の50頭の駄馬を引き連れた一行を襲い、米を捨てさせて、馬に同行者を乗せる。」

・大野で日没、それでも暗い中進む。「村の垣根を壊し明かりとする」

・夜半に伊賀国の隠郡(なばりのこほり)に着く、「駅家(うまや-16キロごとに置かれた馬乗り場)を焼く-連絡情報遮断目的」・・・・このあたりは大海人皇子一行の残忍ではあるがなりふり構わず美濃行きの必死さが描かれている。

・横河、「天の不吉な巨大な黒雲を見て、大海皇子が占うと、天下が分裂の兆し→『朕遂に天下を得むか。』」

・伊賀郡→「駅家を焼く。伊賀中山では数百の兵士がやってきて仲間に加わった」

・翌日(6月25日)の明け方、莉萩野(たらの)、「しばらく休んで食事をする」

・伊賀の積殖(つむゑ)の山口、「高市皇子が7名の舎人を引き連れて合流する。皇子19歳で近江朝にとどまっていたが、大海人皇子の密書により来る。大海人皇子はさぞ嬉しかった事であろう。」

・大山(鈴鹿山地越え)を越えて伊勢の鈴鹿に至る→「伊勢の国司ら5名の率いる軍勢が合流。鈴鹿地の道を塞ぐ。」

・川曲(かわわ)の坂本(今の鈴鹿市山辺付近?)で日没。「皇后が疲れたのでしばらく休む。夜になると雨、雷が激しくなり、寒くなる。」

・三重郡家(みへのこほりのみやけ)→「家1軒を焼いて、暖をとらせる。夜半に鈴鹿関司が使いをよこして、3名の関守をおきたいと申し出る。路直益人(みちのあたひますひと)を遣わして呼びに行かせる。」 合流が増えてくる。

・(6月26日)朝明郡(あさけのこほり)の迹太川(とほかは-今の朝明川)、「大海人皇子、天照太神を遥拝された。路直益人が9名の舎人を伴った大津皇子を連れてくる。大海人皇子、大いに喜ぶ。」

・朝明郡の郡家、「村国連男依 (むらくにむらじをより)が美濃の兵士3000人で不破道を塞いだことを告げる。」「不破での戦さの指揮を高市皇子に執らせるよう、不破に先に行かせた。舎人に命じて東海道諸国、東山(やまのみち-信濃らしい)の軍隊を起こさせた。」

・桑名郡家(くはなのこほりのみやけ)、「宿をとり、しばらく留まって進まなかった。」
(6月27日)高市皇子の要請により「大海人皇子は桑名郡家から不破郡家に入った。不破の野上に行宮(かりみや-仮の宮)を定め、本陣-戦いの本拠地とした。皇后はそのまま桑野に留めた。」

次回は、大海人皇子軍VS大友皇子軍(1) 壬申の乱の戦況を載せたいと思います。

主な参考文献:「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「日本の歴史2古代国家の成立-直木考次郎」(中公新書)、「壬申の乱-遠山美都男](中公新書)、「天の川の太陽-黒岩重吾」(中央公論社)、「ジュニア版日本の歴史1巻日本のなりたち」(読売新聞社)、「図説日本史通覧」(帝国書院) 他

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