▲歴史・古典コーナー(第7回)
大和朝廷5
壬申の乱 (第2回/全5回?)
戦いは大まかに主に3つで行われた。

1、近江路での戦い・・・大海人皇子の正面軍は不破から出発して、琵琶湖の北端から主に琵琶湖の東岸を南下して大津宮(近江朝の宮)を攻撃するルート。(西岸も若干あり。)近江朝軍は北上して不破を目指してこれを迎え撃つ。
2、倉歴道での戦い・・・琵琶湖の南端より東南に伸びて、鈴鹿峠を越えて伊勢に入る道である倉歴道(くらふのみち)の攻防戦。両陣営にとっては側面路ではあるが、重要な場所。
大海皇子軍は倉歴道から大津京を側面から攻撃できる。近江朝軍は伊勢から北上して大海皇子軍の陣営の不破を背面から攻撃できる。
3、倭古京(飛鳥)での攻防戦・・・倭古京(やまとこきょう)は大和朝廷が代々都を定めた本貫地 で倭の大王一族の故郷で今は近江に都が移っているけど最重要な場所。いずれ都がこの地に戻ってくることを多くの人々が願っていた。
両陣営ともここを死守(近江朝軍)、奪還(大海人皇子軍 )できるかが重要になってくる。大海人皇子軍が奪還に成功すれば北上して大津宮の背面攻撃ができる。近江朝軍が死守できれば大津宮への守りの助けになる。近江朝軍の不破背面攻撃の援軍ともなれる。

今回は1の戦いの前半

☆大海人皇子軍VS大友皇子軍(1)「近江路での戦い-前半」
 


近江朝の動揺 ・・・・大海皇子の東国(ここでは伊勢に入ったこと指す)入りを知った近江朝側は驚愕し動揺する。
「是の時に、近江朝、大皇弟(もうけのきみ)東国(あづまのくに)にいりたまふことを聞きて、其の群臣(まえつきみたち)悉くに愕(を)ぢて、京(みやこ)の内震動(うちさわ)く。或いは遁れて東国に入らんとす。或いは退(しりぞ)きてさん山澤に匿れんとす。」
・「大友皇子は群臣たちにどうしたら良いか問う」と、「一人の臣下が策謀が遅れるのはよくないので、早急に勇敢な騎馬兵を集めて追討してはどうかと」答えたのに対して、大友皇子はその意見には従わず全体の体制を整えてから一気に攻めようとして、 ※大友皇子が騎馬兵追討の命令を出していたならば、戦況が一気に変わったかも知れない件(くだり)です。

・「大友皇子は各方面に挙兵の準備を命令する。東国(美濃、不破関)、倭京(やまとのみやこ、飛鳥の本貫地)、筑紫(福岡の大宰府付近)、吉備の国へそれぞれ使者となった群臣が派遣される。」
、「筑紫太宰(おおみこともち)栗隈王(くるくまのおおきみ)と吉備国守(かみ)當摩公(たぎまのきみ)廣嶋 は大海皇子に心を寄せているので、殺せと命じる。結果、當摩公廣嶋は殺すことに成功したが、栗隈王は殺せず、使者(樟使主磐手)は空しく帰っていった。」
・大海人皇子に心を寄せている栗隈王は唐からの襲来に備えているため近江朝への応援派兵はできないと拒否している。「筑紫国は、元より辺賊之難(ほかのわざわい)を戍(まも)る。其れ、城(き)を峻(たか)くして溝を深くして、海に臨みて守らするは、豈内賊(あにうちのあだ)の為ならむや。今し命(おおせごと)を畏みて軍(いくさ)を発(おこ)さば、国空しけむ。・・・・」

、東国の不破の偵察隊及び東国人の募兵(兵士を動員する)として、韋那公磐鍬(いなのきみいはすき)・書直薬(ふみのあたひくすり)・忍坂直大摩侶(おしさかのあたひおおまろ)を派遣する。韋那公磐鍬は山中に敵兵が隠れているかもしれないと思い、自分は一番後ろからゆっくりと歩を進めた。突然敵の伏兵が山中から現れて先に行ってた薬・大摩侶は捕縛される。磐鍬はこの様子を見て逃げて難を逃れる。
大海人皇子側の記述(高市皇子が大海人皇子に伝えた)
「昨日(きぞ)、近江朝より駅使(はゆまつかひ)馳せ至りぬ。因りて伏兵(かくしいくさ)を以って捕ふれば、書直薬・忍坂直大摩侶なり。何所(いずく)にか往くと問ふ。答へて日(まを)しつらく、『吉野に居ます大皇弟(もうけのきみ)のために、東国(あずまのくに)の軍(いくいさ)を発(おこ)して遣わす韋那公磐鍬が徒(ともがら)なり。然るに磐鍬は兵(いくさ)の起こるを見て、乃(すなわ)ち逃げ還りぬ』ともをしつ。」

◎内紛の勃発・・・琵琶湖の東岸から北上して不破関を目指していた大友軍は、犬上川(琵琶湖の南端から約2/3ぐらいに位置する川)のほとりに本陣をかまえていた。しかし首脳陣の意見の対立により?内紛が起こり、山部王(やまべのおほきみ)が将軍の蘇我臣果安(そがのおもはたやす)と巨瀬臣比等(こせのおみひと)に無残にも殺される。

「時に近江、山部王・蘇我臣果安・巨瀬臣比等に命(おほ)せて、数万の衆を率て、不破を襲はむとして、犬上川の浜に軍(いくさだち)す。山部王、蘇我臣果安・巨瀬臣比等のために殺されぬ。是の乱れによりて、軍進まず。」
その後、蘇我臣果安は近江に戻り自害している。
※時に近江 ・・・ 時に近江の表現や山部王の惨殺のこのくだりや下の玉倉部邑への奇襲の表現は、日本書紀が天武天皇側に立って書かれていたためか、曖昧な日時、事実羅列の記述をしている。殺害の理由、経緯等は書かれていない。

・ 内紛の様子を見ていた 将軍の羽田公矢国、大人(うし)の親子は大友軍に見限り陣から脱走する。のちに大海人軍に投降して寝返る。大海人軍の将軍として近江朝を攻める。

近江朝による玉倉部邑への奇襲、内乱の勃発前に近江朝の記述「是より先に、近江、精兵(こといくさ)を放ち、忽ちに玉倉部邑(たまくらべのむら)を衝く。即ち出雲臣狛を遣わして、撃追(うちお)はしむ。」
近江朝が優位に立てた絶好の場面ではあるが、前述の内紛により応援部隊が来ず(「軍進まず」)」、失敗に終わっている。 玉倉部邑と不破の本陣まで約12キロくらいか。
それにしても短く素っ気ない書き方である。(日本書紀が天武天皇側に立って作られている)


高市皇子の決意 ・・・大海人皇子から軍の指揮を任された息子の高市皇子(19歳)は父の大海人皇子の弱音-「近江朝には左右大臣と智略ににたけた群臣が協議しているが、私には相談相手がおらず、幼い子供だけだ。」- に対して、腕まくりして剣を握りしめて「近江の群臣(まへつきみ)多(さわ)なりと雖(いへと)も、何ぞ敢えて天皇(すめらみこと)の霊(みたま)に逆はむや、天皇独りのみにましますと雖も、即ち臣高市、神祇(あまつかみくにつかみ)の霊(みたまのふゆ)に頼り、天皇の命(みこと)を請けて、諸将(もろもろのいくさのかみ)を引率(ひきゐ)て征討(う)たむ。豈距(あにふせ)くこと有らむや」ともうす。」

意訳すると「近江朝に群臣が多いといっても、天皇の霊力に逆うことはできません。私は神祇の霊威と諸将軍の力により敵を討伐しましょう。敵はわが軍勢を防ぐことはできません」
父の大海人皇子は高市皇子を褒めて、「慎重にふるまえ、油断するな」と仰せになった。

次回(5月)は大海人皇子軍VS大友皇子軍(2)「倭古京・倉歴道での戦い」

主な参考文献:「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「日本書紀(3)-新編日本古典文学全集」(小学館)、「日本の歴史2古代国家の成立-直木考次郎」(中公新書)、「壬申の乱-遠山美都男](中公新書)、「天の川の太陽-黒岩重吾」(中央公論社)、「図説日本史通覧」(帝国書院) 他

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