▲歴史・古典コーナー(第8回)
大和朝廷6
壬申の乱 (第3回/全5回)

大海人皇子軍VS大友皇子軍(2)
「倭古京の戦い(前半)・倉歴・莿萩野の戦い」


 今回は初めに大海人皇子側が大友皇子率いる近江朝側が守っている倭古京(飛鳥古京)を奇襲により奪い取った件から始めます。その立役者が大伴連吹負

6月29日に大海人皇子は軍の本拠地である和蹔(わざみ-不破関)にやってきて高市皇子に命じて近江朝を討つよう軍衆に号令された。

大伴連吹負(おおとものむらじふけい)は初め兄の大伴馬来田(おおともまくた)とともに初めは近江朝側についていたが、情勢をみて大海人皇子側に寝返っていた

書紀の本文、「是の時の当りて、大伴連馬来田・弟吹負、並に時の否(よくあらぬ)を見て、病と称して倭(やまと-今の桜井市あたり)の家に退(まか)りぬ。然(しか)して其の登嗣位(あまつひつぎしらしめ)さむは、必ず吉野に居(ま)します大皇弟(もうけのきみ)ならむといふことを知れり。是を以ちて、馬来田、先ず天皇(すめらみこと)に従ふ。唯(ただ)し吹負のみ留りて謂(おも)はく、名を一時(ひととき)に立て、艱難(わざわい)を寧(やす)めむと欲(おも)ひ、即ち一二(ひとりふたり)の族(やから)と諸(もろもろ)の豪傑(いさを)を招き、僅かに数十人を得つ。」

※兄弟は、天皇の位を継ぐのは吉野にいらっしゃる大皇弟=大海人皇子であることを悟って寝返る。
吹負は手柄をあげるために大和の地元に帰って待機していたことになる。正規軍の兵ではない。

☆大伴吹負の倭古京の奇襲攻撃


大伴連吹負
は、近江朝の倭古京・留守の役人・坂上直熊毛(さかのうえのあたひくまげ)と密かに共謀して、一、二人の漢直(あやのあたひ-帰化系の氏族)に「私は高市皇子と嘘を言って、数十騎で軍営地を急襲しよう。お前たちはこれに応えるように振る舞え。」と語った。すでに自分の家で戦いの準備をし終わって、飛鳥寺の南門 から現れた。秦造熊(はたのみやつこ)にふんどし姿(衣服を着けられないほど切迫して慌てふためく)で馬を走らせ、飛鳥寺の西の軍営地に「高市皇子、不破より至りませり。軍衆多(いくさのひとどもさは)に従へり」と大声で叫ばせた。

 秦造熊の叫び声を聞いた陣営の連中は驚いて散り散り逃げていった。そこへ 数十騎を引き連れた吹負が陣営に現れた。坂上直熊毛、大勢の漢直は吹負に帰順し、兵士たちも服従した。兵器番の穂積臣百足だけは軍営地とは離れた場所にある兵器庫にいたのでこの出来事を知らなかったので、後から呼び寄せた。
「百足、馬に乗りて緩(やくやく)に来たり、飛鳥寺の西の槻の下に逮(いた)る。人有りて曰く、「馬より下りね」といふ。時に百足、馬より下るること遅し。便(すなは)ち其の襟(ころものくび)を取りて引き堕(おろ)し、射て一箭(ひとや)に中(あ)つ。因(よ)りて刀を抜きて斬りて殺しつ」

大伴連吹負の奇襲による倭古京奪還の成功の知らせを聞いて、「天皇(大海人皇子)、大きに喜びたまふ。因りて吹負をして将軍(いくさのきみ)に拝(め)さしむ。」

将軍となった吹負の下に、三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷(かものきみえみし)たちと、多くの豪傑が続々と怒涛のごとく 集まり、吹負の指揮下、近江朝(大友皇子側)討伐の謀議をした。軍の中の優れたものを、別将(別動隊の将軍)、軍監(副将軍の次?)とした。

「庚寅(かのとのとら、7月1日)に、初(ま)づ乃楽(なら)に向ふ。

※ 近江軍が琵琶湖の南端から南下して要衝の乃楽を通り更にほぼ一直線上に南下して倭古京を奪還してくるのを阻止するため。 大津京-乃楽-倭古京 は、ごく大雑把に言ってほぼ 一直線上にあり乃楽はそれぞれの中間に位置する。

大和方面攻防戦(倭古京に到る周辺での攻防戦)

7月1日
☆高安城の戦い

 吹負が乃楽山に向かう途中の稗田(ひえだ)に着いたとき、「河内より軍多(いくささは)に至る」の情報を得て、その周辺の要衝の竜田(兵士300人)、大坂(兵士数百人)、石手道(いはてみち、兵士数百人)を隊幹部にそれぞれ命じて、軍勢を派遣して守らせた。
竜田の隊長・坂本臣財(たから)の部隊は竜田付近の平石野に野営していた。
その時、近江軍が高安城(たかやすのき)いるとの情報を聞いて、隊を引き連れて高安城に登った。(※恐らく近江方が、手薄であるとの情報)
近江軍は、財の部隊が来襲してくることを察知して、「悉く(ことごとく)税倉(ちからくら)を焚(や)き、皆散り亡(う)せぬ。仍(よ)りて城中(きのうち)に宿る」

※高安城・・・朝鮮半島の白村江の戦いで百済を守るために、唐、新羅の連合軍に敗れたために、667年、天智天皇が危機感から国内防衛のために、金田城(対馬)、屋嶋城(高松)、高安城を築いた。高安城は大和朝廷の宮都を守る目的で築かれた。四方眺望(大阪平野、明石海峡、大阪湾、大和平野・・)がいいので、内外敵の来襲、大和方面の異変等監視ができる。高安山の標高487メートル、大阪平野側の西斜面は急峻、飛鳥側の東斜面はなだらか。
税倉・・・ 租税で納めさせた米の倉庫、焼いたのは米が敵方に渡って敵方の食糧になるのを防ぐためであろう。

7月2日
☆衛我河(ゑがのかは)の戦い

明け方、坂本臣財の部隊が高安城の上から西方を見ると、大津・丹比(たぢひ)の両道から近江の大軍勢が押し寄せ、旗や幟がはっきりと見えた。或る兵士が「近江の将壱岐史韓国(いくさのきみいきのふびとからくに)が師(いくさ-軍隊)なり」が言った。
坂本臣財の部隊は高安城を下りて衛我河を渡って、川の西側で韓国の部隊と戦うも、軍勢が少なく防ぎきれなかった。敗れて紀臣大音(きのおみおほと)に守らせていた懼坂(かしこ)に退却した。

河内国司守来臣塩籠の自殺
「是(これ)の時に河内国司守来臣塩籠(かはちのくにのみこともちのかみくめのおみしほこ)、不破宮(ふはのみや-大海人皇子)に帰(まゐよ)る情(こころ)有りて、軍衆を集(つど)ふ。爰(ここ)に韓国到りて、密に其の謀(はかりごと)を聞きて、塩籠を殺さむとす。塩籠、事の漏れしを知り、乃ち自ら死(みう)す」
※塩籠が大海人皇子方に帰順しようとしてバレて自殺した件。

近江軍の怒涛の進軍
7月4日
「一日(ひとひ)を経て、近江軍(あふみのいくさ)、諸道(もろもろのみち)に当りて多に至る。即ち並に相戦ふこと能はずして、解き退く。」
※近江軍が諸道から大軍勢で押し寄せてきた。少人数の大海人皇子方の部隊は防戦しきれず敗退する。

大海人皇子の正規軍の本格的始動 ・・・不破の本拠地で編成された軍隊(大軍団)

7月2日
倭古京防衛軍 ・・・大海人皇子が吉野を脱出して美濃の不破に北上した同じ道を南下していく。倉歴道は美濃と吉野とのほぼ中間に位置し、琵琶湖の東岸のほぼ南端に通じている道で軍事的に要衝の地、莿萩野 はやや南に南下したところにあり、ここも要衝の地。

・原文「天皇、紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)・多臣品治(おほのおみほむじ)・三輪君小首(こびと)・置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)を遣わして数万の衆(いくさ)を率(ゐ)て、伊勢の大山より越えて倭に向かはしめ」
更に「多臣品治に命(みことのり)して、三千の衆を率て、莿萩野(たらの)に屯(いは)ましめ、田中臣足麻呂を遣わして、倉歴道(くらふのみち)を守らしむ」

近江朝攻撃軍 ・・・琵琶湖の主に東岸を北から南下、自軍には近江軍と区別するために赤い布を着けさせる。

・原文「村国連男依(おより)・書首(ふみのおびと)根麻呂・和珥(わに)部臣君手・胆香瓦(いかご)臣安部を遣はして、数万の衆を率て、不破より出でて直(ただ)に近江に入らしめたまふ。其の衆と近江の衆の師(いくさ)と別(わ)き難きを恐り、赤色を以ちて衣の上に着く」

☆乃楽山駐屯と倭古京防衛作戦

7月3日
・原文「将軍(いくさのきみ)吹負(ふけい)、乃楽山の上(へ)に屯(いは)む。時に荒田男尾直赤麻呂(あらたおのあたひあかまろ)、将軍に啓(まを)して曰(まを)さく、「古京(ふるきみやこ)は是本営(これもとのいほり)の処なり。固く守るべし」とまをす。将軍従ふ。則(すなは)ち赤麻呂、・忌部首小人(いみをべのおびとこびと)を遣わして、古京を戍(まもらしむ)。
是に赤麻呂等(ら)、古京に詣(いた)りて、道路(みち)の橋板を解(こほ)ち取り、楯を作り、京辺(みやこほとり)の衢(ちまた)に竪(た)てて守る。
※吹負の軍は少人数なので近江軍がやってきた時に橋板外しで進路を妨害し、同時に街中の橋板の楯で吹負軍はたくさんの兵がいると思わせる騙し作戦をした。

☆乃楽山での敗戦

7月4日
・原文 「将軍(いくさのきみ)吹負(ふけい)、近江の将(いくさのきみ)大野君果安(はたやす)と、乃楽山 に戦い、果安が為に敗らる。軍卒(いくさひと)悉(ことごとく)に逃げ、将軍吹負、僅に身を脱るることを得つ。
※ずいぶん簡単な記述である。←日本書紀が天武側にたって編纂された。

☆勝利した大野君果安の重大なミス

7月5日
・原文「是(ここ)に果安、追ひて八口(やぐち)に至り、仚(のぼ)りて京を視(み)るに 、街毎(まちごと)に楯を竪つ。伏兵(かくしいくさ)有らむことを疑ひて、乃(すなは)ち 稍(やくやく)に引き還る。」

※赤麻呂等の橋板外し、橋板の楯作戦にまんまと引っかかった描写。このまま果安の軍勢が倭古京に突き進んでいたら、赤麻呂等が少人数で守っている倭古京奪還に成功していただろうに多数の伏兵を疑い引き返してしまったのは重大なミスであったようだ。
八口は乃楽山と倭古京を結ぶ道の途中の場所で高台になっていたのであろう。

倉歴(くらふ)・莿萩野(たらの)の戦い
第一ラウンド(7月5日)
近江の別将田辺小隅の軍の夜襲の成功の段・・・・入り乱れたときのために敵味方を区別する合言葉「金」(かね)を用意して敵に気づかれないようにそっと突然襲撃した。足麻呂だけは察知して「金」と言って危機を逃れた。

・原文「近江の別将(こといくさのきみ)田辺小隅(をすみ)、鹿深山(かふかやま)を越えて、幟(はた)を巻き鼓(つづみ)を抱(うだ)き、倉歴(くらふ)に詣(いた)る。夜半を以ちて、梅(ばい)を銜(くく)み城(き)を穿(うが)ち、劇(にはか)に営(いほり)の中に入る。則(すなは)ち己が卒(いくさひと)と足麻呂が衆(いくさ)と別(わか)ち難きことを畏(おそ)りて、人毎に『金』(かね)と言はしむ。仍(よ)て刀を抜きて殴(う)ち、『金』と言ふに非(あら)ざるは乃ち斬る。是に足麻呂が衆、悉くに乱れ、事忽ち(たちまち)に起りて所為(せむすべ)を知らず。唯(ただ)足麻呂のみ聡(さと)く知りて、独り『金』と言ひて、僅かに免るる ことを得(え)たり。
※梅とは口木(クチキ)で箸状の木、くわえさせたのは、声を発しないため。

第二ラウンド (7月6日)
小隅、更に莿萩野(たらの) を急襲したが、多臣品治の軍に防がれ、更に追撃されて失敗に終わる。
・原文「小隅亦(また)進みて、莿萩野の営(いほり)を襲はむとして忽ちに到る。爰(ここ)に、将軍(いくさのきみ)多臣品治(おほのおみほむじ)遮(た)へて、精兵(ときいくさ)以ちて追撃(おひう)つ。小隅、独り免れて走(に)げぬ。以後(これよりのち)、遂に復来らず」

次回は、大海人皇子軍VS大友皇子軍(3)「倭古京の戦い及び周辺の攻防戦(後半) 」

主な参考文献:「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「日本書紀(3)-新編日本古典文学全集」(小学館)、「壬申の乱-遠山美都男」(中公新書)、「全現代語訳 日本書紀-宇治谷 孟」(講談社学術文庫)、「天の川の太陽-黒岩重吾」(中央公論社) 他

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