▲歴史・古典コーナー(第10回)
大和朝廷8
壬申の乱 (第5回/全5回)
大海人皇子軍VS大友皇子軍(4)「最終戦-瀬田の戦いとその後」
☆大海人皇子軍の村国男依の軍(不破関から湖北~湖東~瀬田川へ向けて南下)の大活躍
◎息長の横河の戦い・・・・ 横河は琵琶湖の湖北の下部(琵琶湖東岸の上端に接する辺り)にあり、現在の米原市付近で不破関からは近い。
丙申(七月七日)に、男依(をより-村国男依で大海皇子軍の将軍)等、近江軍と息長の横河に戦ひて破り、其の将境部連薬(いくさのきみさかいべのくすり)を斬る。
◎鳥籠山の戦い・・・・(とこのやま)湖東の現在の彦根市正法寺町辺りの小高い丘陵地ではっきりと特定されていない。大堀山も一説としてある)
戊戌(七月九日)に、男依等、近江の将秦友足(いくさのきみはたのともたり)を鳥籠山に討ちて斬る。
◎安河の戦い・・・ 現在の野洲川(やすがわ)で、琵琶湖の河口付近では守山市を流れ、滋賀県最長の一級河川。荒れ川で近江太郎の異名を持。つ
壬寅(七月十三日)に、男依等、安河の浜(ほとり)に戦ひて大きに破り、則ち社戸臣大口(こそへのおみおおくち)・土師連千島(はじのむらじちしま)を獲ふ。
◎栗太(くるもと)の戦い ・・・ 近江の国府が置かれたところ、現在の大津市大江付近、瀬田川が間近に迫る。
丙午(七月十七日)に、栗太の軍(いくさ)を討ちて追ふ。
☆瀬田の最終戦 ・・・・瀬田橋を挟んでの最終決戦、当時の橋は現在の瀬田唐橋より約80メートル下流にかけてあったとされる。
大友軍は橋の西側に大友皇子を初めとして群臣、兵士が凄まじい数が、集結して軍営を敷き、橋の東側から攻めてくる大海皇子軍を待ち構える。戦い火蓋が切って落とされた。
※ここの場面、誇張、潤色等あるかも知れないが、なかなか興味深い描写。現在の瀬田の唐橋は約223m、途中に中州があるので小橋(52m)と大橋(172m)に分けられている。
※瀬田川は唯一琵琶湖から水源として流れ出て約15kmを言う。更に名前を変えて宇治川、淀川となって大阪湾に流れる。瀬田川の左岸は草津側、右岸が京都府側となる。
※川の左岸、右岸の決め方・・・・河口に向かって(山を背にして)立った時、左側を左岸、右側を右岸とする。
辛亥(七月二十二日)に、男依等瀬田に到る。時に、大友皇子と群臣等(まへつきみたち)、共に橋の西に営(いほ)りして、大きに陣を成し、其の後(しりへ)を見ず。旗幟(きしょく-旗やのぼり)野を蔽(おほ)ひ、埃塵(あいじん)天に連なり、鉦鼓(しょうこ-鐘や太鼓)の声(おと)数十里に聞ゆ。列弩乱発(れつどらんぱつ-次々と矢を放つこと)し、矢の下ること雨の如(ごと)し。
其の将智尊(いくさのきみちそん-大友方の将軍)、精兵(ときいくさ-選りすぐった強い兵士)を率(ゐ)て 、先鋒(さき)として距(ふせ)く。
大友皇子軍の罠・・・ 大海皇子軍が渡れないように橋にある細工をする。
仍(よ) りて、橋の中を切断(きりた)つこと三丈(じょう-約3m)を須容(いるばかり)にして、一つ長板(ながきいた)置き、設(たと)ひ板を蹋(ふ)みて度(わた)る者有らば、乃ち板を引きて堕(おと)さむとす。是を以ちて進み襲うことを得ず。
大友皇子軍の罠に立ち向かう勇敢な兵士の登場
是に勇敢(たけ)き士(つはもの)有り、大分君稚臣(おほきだのきみわかおみ)と曰(い)ふ。則ち長矛(ほこ)を棄て甲(よろひ)を重ね着、刀を抜き急(すみやけ)く板を蹈(ふ)みて度る。便(すなわ)ち板に着けたる綱を断(き)りて、被矢(いえ-射られながら)
つつ陣に入る。衆(いくさ)悉(ことごと)くに乱れて散(あら)け走(に)げ、禁(とど)むべからず。時に将軍(いくさのきみ)智尊、刀を抜きて退(に)ぐる者を斬る。
大友皇子軍の敗北、敗走
大友皇子・左右大臣等(ひだりみぎのおほまへつきみたち)、僅かに身免れて逃ぐ。男依等、即ち粟津岡(あはづのおか)の下(もと)に軍(いくさだち)す。
三尾城の戦い・・・ 琵琶湖西岸にある城
是の日に、羽田公矢国(はたのきみやくに)・出雲臣狛(いずものおみこま)、合共(とも)に三尾城(みおき)を攻めて降しつ。
大友皇子の自害
壬申(七月二十三日)に、男依等、近江の将犬養連五十君(いくさのきみいぬかひのむらじいきみ)と谷直塩手(たにのあたひしょて)を粟津市(あはづのいち) に斬る。是に大友皇子、走(に)げて入(い)らむ 所無く、乃ち還りて山前(やまさき)に隠れて、自ら縊(くび)れぬ。時に、左右大臣と群臣(まへつきみたち)、皆散(あら)け亡(う)せぬ。唯(ただ)し物部連麻呂(もののべのむらじまろ)のみ、且一二(またひとりふたり) の舎人(とねり)従へり。
☆ 壬申の乱の終結
◎ 近江方への処分
癸丑(七月二十四日)に、諸(もろもろ)の将軍等(いくさのきみたち)、筱浪(ささなみ-滋賀県大津市西北一帯の地域)に会(つど)ひて、左右大臣(ひだりみぎのおほまへつきみ)と諸の罪人等(つみびとども)を探り捕ふ。
乙卯(七月二十六日)に、将軍等、不破宮(野上行宮、大海皇子軍の本拠地)に向(まゐ)づ。因りて、大友皇子 の頭(かしら)を捧げて、営(いほり)の前に献(たてまつ)る。
〇八月の二十五日に、高市皇子(大海皇子の長男)に命じて、近江方の群臣の罪状を宣告させた。
則ち重罪(おもきつみ)八人を極刑(しぬるつみ)に坐(お)く。 仍(よ)りて、右大臣中臣連金(みぎおほまへつきみなかとみむらじかね)を浅井の田根に斬る。
是の日に、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)・大納言巨瀬臣比等(おほきものまをすつかさこせのおみひと)と子孫(うまご)、幷(あは)せて中臣連金が子、蘇我臣果安(はたやす)が子、悉く配流(なが)す。
◎恩賞
丙戌(八月二十七日)に、諸(もろもろ)の有功勲者(いさをしきひと)に恩勅(めぐみのみことのり)して、顕(あきらか)に寵(めぐ)み賞(たまもの)す。
☆大海人皇子の即位 (663年2月27日)
天皇(すめらみこと-大海人皇子)、有司(つかさ)に命(みことおほ)せて壇場(たかみくら)を設(ま)け、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に即帝位(あまつひつぎしらしめ)す。
天武天皇の婚姻、家族・・・・・その後の皇位継承争いで悲劇を暗示
正妃(むかひめ)を立てて皇后(きさき)とす。后(きさき)、草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)を生みたまふ。先に皇后の姉大田皇女(いろねおほたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(みめ)とし、大来皇女(おほくのひめみこ)と大津皇子(おほつのみこ)とを生む。
主な参考文献:「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「日本書紀(3)-新編日本古典文学全集」(小学館)、「壬申の乱-遠山美都男」(中公新書)、「天の川の太陽-黒岩重吾」(中央公論社)、
他
(C) Katumasa Ohbayashi