▲歴史・古典コーナー(第4回)
大和朝廷2(動揺期~刷新)
6世紀に入ると、朝廷内の有力氏族の権力争い、権力の増大化した地方豪族の反抗等により、中央集権化を目指していた大和朝廷にほころびが見え始め、政治的混迷期に突入する。更には日本とつながりの深い加羅(伽耶ともいう)地方が、三国(高句麗、新羅、百済)の勢力争いに巻き込まれて領地縮小を余儀なくされ、日本の南朝鮮での影響力が低下していった。
推古天皇(初めての女帝)が即位すると甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳太子)に摂政として政治を任せた。厩戸皇子は蘇我馬子の協力を得て混迷を打破すべく改革に乗り出すが・・・・。
①大和朝廷を支える有力氏族の大伴、物部、蘇我氏による権力闘争
・大伴金村の台頭から失脚・・・・大伴氏は軍事を司る有力な連であったこともあり、朝廷内では元々重要な要職にあった。
第25代武烈天皇に嗣子(しし 、跡継ぎ)がなく、皇統断絶の危機にあったが、大伴金村がが越前の国にいた応神天皇の子孫の男子・大迹王(おおとのおおきみ)を迎え、継体天皇として即位させた。→→→より権力が増大していった。
しかし、加羅(伽耶ともいう)地方の百済への割譲を金村が認めたことで、のちに朝廷内での他の有力豪族(主に物部氏)の批判にさらされ権力失墜を招き、失脚した。
・物部氏と蘇我氏の対立と蘇我氏の勝利
金村を失脚に追い込んだ軍事担当の大連の物部尾興(もののべのおこし)は、大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)と対立した。
538年に百済の聖明王が仏像及び経論を朝廷に献上し、仏教を礼拝信仰するように勧めたことで、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の対立となった。
息子の代の蘇我馬子VS物部守屋でも対立が続き、用明天皇死後の皇位後継問題も絡んで武力紛争にまで発展した。物部守屋が推す穴穂部皇子(あなほべのみこ)を策士の蘇我馬子が討ち殺し、さらには守屋をも攻め滅ぼした。
蘇我馬子は泊瀬皇子(はつせべのみこ)を崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位させる。
物部氏の滅亡により蘇我氏の大和朝廷での権力を掌中に入れることになる。蘇我氏独裁の始まりとなる。
②地方豪族の反抗
・筑紫国造磐井の乱・・・・大和朝廷は朝鮮半島での影響力回復のため、新羅征討軍を派兵するが、九州一帯で絶大な権力を握っていた筑紫国造磐井が密かに新羅と通じて反乱を起こした。1年半にわたる戦乱となったが、物部麁鹿火(もののべあらかび)の軍により鎮圧された。
・吉備田狭の乱(きびたさのらん)・・・・加羅地方の長官に任命されたこと(実質的には左遷追放に当たる)に反抗して乱を起こす。日本書紀には吉備田狭の自慢の美人の妻が雄略天皇に奪われたので反抗したとの記述がある。
③推古朝での厩戸皇子の改革
・馬子は自分が推した崇峻天皇が実は馬子を嫌っている(馬子の勝手、横暴が原因?)のを耳にして、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて殺害させた。
額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が推古天皇として誕生。初めての女性天皇である。 推古天皇は甥の厩戸皇子(うまやどのみこ、聖徳太子)を摂政として政治を行わせた。
・ 厩戸皇子は蘇我馬子と協力して大和朝廷の刷新、改革を進めていった。
(ア)冠位十二階の制定
中国の隋、朝鮮の三国の制度を参考に、能力、功績によって役人の位を6つ分け、更に大小の違いを設けて12の冠位とした。氏姓制度は家柄などによって姓(かばね)を与えていた。
徳・仁・礼・信・義・智
大徳・小徳-大仁・小仁-大礼・小礼-大信・小信-大義・小義-大智・小智
(イ)憲法十七条
国家の根本的法律というよりは朝廷に仕える官僚の役人としての心構えや道徳心を説いた性格が強い。豪族間の争いの戒め、天皇中心の国家の樹立を目指そうとした。
一に曰く、和を以って貴しとなし、さからうこと無きを宗とせよ。
二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。
三に曰く、詔(みことのり、天皇の命令)を承りては必ず謹め。君をば即ち天とす。臣をば地とす。
四に曰く、群卿百寮(役人)、礼を以って本とせよ。其れ民を治る本は礼にあり。
六に曰く、悪を懲らし善を励むるは古の良典(よりのり)なり。
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにみのやっこ)、百姓(おおみたから)に斂(おさ)めとる(重税を課す)ことなかれ。国に二君なく、民に両主なし。率土(くにつち)の兆民(おおみたから)、王を以って主となす。
※率土の兆民→ 国内のすべての民
十五に曰く、私に背いて公に向うは、これ臣の道なり。
十七に曰く、大事は独り断ずべからず。
※国司は当時使われていなかったので、厩戸皇子が制定したのではなく、後世に作られたという説があるとのこと。聖徳太子は架空の人物だという説も出てきている。教科書から聖徳太子が消えつつあるのはこんな事情があるのかも知れない。「ヤマト王権と古代史十大事件・関裕二」(PHP文庫)等に詳しい。
(ウ)史書の編纂
「天皇記」「国記」などを編纂し、皇室系譜の正しさと支配の正当性を主張しようとした。蘇我氏の保管であったが、蘇我邸宅の火事により焼失したと言われている。
(エ)暦の採用
百済の観勒が伝えた太陰暦を採用した。
(オ)仏教の奨励
・仏教興隆の詔を出した。
・寺院建立・・・四天王寺(大阪府)、法隆寺(奈良県)
仏像造立・・・釈迦三尊像、百済観音像、救世観音像
・三経義疏(さんぎのぎしょう)を著した・・・法華経・維摩経・勝鬘経の注釈書
(カ)遣隋使の派遣
中国の文化や政治制度を取り入れ、隋との積極的対等外交により朝鮮半島諸国への圧力を強めようとした。
607年に小野妹子らが隋に渡り、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや。・・・」(隋書-倭国伝)で有名な国書を隋の煬帝に渡している。 日出づる処の天子→東の日本の天皇、 日没する処の天子→西の隋の皇帝
608年に隋の使者・裴世清(はいせいせい)を伴って帰国した。
608年に再び隋に渡った。渡来人の子孫の高向玄理(たかむこのくろまろ/げんり)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、旻(みん)らの留学生、留学僧が随行して中国の文化、政治制度を学ばせた。
次回は「大和朝廷3」で飛鳥文化と大化の改新、壬申の乱 です
参考文献:「中学歴史の発展的学習」、「理解しやすい日本史B」(文英堂)、「詳解日本史」(旺文社)、「図説日本史通覧」(帝国書院)、「ジュニア版日本の歴史1巻日本のなりたち」(読売新聞社)、「物語日本史上・平泉澄」(講談社学術文庫)、「日本の歴史1・井上光貞、日本の歴史2
・直木孝次郎」(中公文庫)、「愛とロマンの世界・伊藤栄洪」(明治図書中学生文庫)、「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「ヤマト王権と古代史十大事件・関裕二」(PHP文庫)他
(C) Katumasa Ohbayashi