歴史・古典コーナー(第9回)
大和朝廷7
壬申の乱 (第4回/全5回)
大海人皇子軍VS大友皇子軍(3)
「倭古京の戦い及び周辺の攻防戦(後半)」
★乃楽山で敗れた将軍吹負の軍の体制の再編成
乃楽山で敗れて1、2名の家来と敗走中の将軍吹負は墨坂で偶然、置始莵(おきそめのうさぎ) の軍勢に出会う。金綱井に戻り駐屯し、散り散りになった兵士を呼び集めて体制を整えて、倭古京の死守に奮闘していく。
(今回の説明、日本書紀の本文の順序を変えて編集しました。)
☆高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)に乗り移った不思議な託宣(お告げ)
将軍吹負の軍が金綱井に駐屯している時、高市県主許梅が突然口が利けなくなり、三日後に、神がかりしてお告げを語りだした。
「高市社(たけちのやしろ)の事代主神(ことしろぬしのかみ)で、また身狭社(みさのやしろ)の生霊神(いくみたものかみ)である」と言い、
「 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと神武天皇)の陵(みささぎ=墓)に馬及び種々の武器を奉納せよ」と言い、
「吾は皇御孫命(すめみまのみこと=大海人皇子)の前後(みさきしりへ)に立ちて、不破に送り奉りて還る。今し官軍(みいくさ)の中に立ちて守護(まも)りまつる」といふ。また言はく、 「西道より軍衆(いくさひとども)至らむとす。慎むべし」
言い終わって許梅は神がかりから覚めた。
許梅を遣わして、御陵に馬と武器を奉って礼拝させ、また、高市・身狭の二社の神を供物を捧げ礼拝させた。
村屋神が神官に取り憑いて、「今し吾が社の中道より軍衆至らむ。故(かれ)、社の中道を塞(た)ふべし」といふ。
☆許梅に乗り移つた不思議な託宣(お告げ)→ 現実の戦 となる。
◎葦池の戦い
将軍吹負は近江軍が大坂道から攻めてくることを斥候から聞きつけて、「将軍、軍を引きて西に如(ゆ)く。当麻(たぎま)の衢(ちまた)に到りて、壱岐史韓国(いきのふびとからくに)が軍と葦池の側(ほとり)に戦ふ。時に、勇士来目(たけきひとくめ」といふ者有り、刀を抜き急(すむやけ)く馳せて、直(ただ)に軍の中に入る。騎士継踵(うまいくさしき)りて進む。則(すなは)ち近江軍悉(ことごと)くに走(に)げ、追ひて斬ること甚多し。爰(ここ)に将軍、軍中(いくさのなか)に令(のりごと)して曰く、「其れ、兵(いくさ)を発(おこ)す元の意(こころ)は、百姓(おほみたから)を殺さむとには非ず。是、元凶(あた)の為なり。故(かれ)、妄(みだり)に殺すこと莫(なか)れ」といふ。近江方の韓国、独りで逃げていくのを見て将軍は来目に射させるが、当たらず、韓国は逃れた。
※神憑りの「西道より軍衆(いくさひとども)至らむとす。慎むべし」の託宣と一致。
◎ 村屋の戦い ・・・村屋は中道の途中にあり、倭古京より約6キロ北にある。
将軍吹負が本営(もとのいほり=倭古京)に戻ると、東国から伊勢を通って来た大海皇子の正規軍の軍勢が続々とやってきた。吹負は上中下の道の守りにそれぞれ軍兵を振り分けて駐営させた。吹負は中道(なかつみち)を自ら選んだ。
※ 上中下の道・・・奈良盆地を南北に走る三本の古道で、ほぼ4里(約2、1km、古代では1里は300歩で約530m)の等間隔に並行して 走っている。東側を上ツ道、真ん中を中ツ道、西側を下ツ道が走る。
「是に近江の将犬養連五十君(いくさのきみひぬかひのむらじいきみ)、中道(なかつみち)より至りて村屋に留まりて、別将廬井造鯨(こといくさのきみいほゐのみやつこくぢら)を遣すて、二百の精兵(ときいくさ)を率(ゐ)て、将軍(=吹負)の営(いほり)を衝(つ)かしむ。当時(とき)に、麾下(きか=指揮下)の軍少なくして、距(ふせ)くこと能(あた)はず。
爰(ここ)に、大井寺の奴名は徳麻呂等五人有りて、軍に従えへり、即ち徳麻呂等、先鋒(さき)と為りて進みて射る。鯨が軍、進むこと能(あた)はず。」
※神官に取り憑いた村屋の「今し吾が社の中道より軍衆至らむ。故(かれ)、社の中道を塞(た)ふべし」の託宣と一致。
※少数の吹負の軍は、近江方の鯨の軍に攻撃されて村屋を明け渡すが、大井寺の奴五人らの活躍により、鯨の軍の本営(倭古京)への進入を阻止した。
◎箸陵(はしはか)の戦い ・・・箸陵は上道の途中にあり、倭古京より約6キロ北北東にある。中道の村屋とは近くにある。箸墓古墳で有名。
「是の日に、三輪君高市麻呂・置始連莵(おきそめのむらじうさぎ)、上道(かみつみち)に当たりて、箸陵に戦ふ。大きに近江軍(あふみのいくさ)を破りて、勝乗りて、兼ねて鯨が軍の後(しりへ)を断つ。鯨が軍、悉(ことごとく)に走(に)げ、多(さは)に士卒(いくさ)を殺す。」
「鯨、白馬(あをうま)に乗りて逃げ、馬、泥田(ふかた)に堕ち、進行(すすみゆ)くこと能はず。則ち将軍吹負、甲斐の勇者(たけきひと)に謂(かた)りて曰く、「其の白馬に乗れる者、廬井鯨なり。急(すみやけ)く追ひて射よ」といふ。是に甲斐の勇者、馳せて追ひ、鯨に及(いた)る比(ころほひ)に、鯨急(たちまち)に馬に鞭うち、馬能(よ)く抜けて泥(ひじりこ)を出で、即ち馳せて脱(まぬか)るることを得たり。」
「将軍、亦更に本処(もとのところ=倭古京)に還りて軍(いくさだち)す。此より以後(のち)に、近江軍(あふみのいくさ)遂に至らず」
◎将軍吹負の倭古京の平定
「辛亥に、将軍吹負、既に倭の地(ところ)を定め、便(すなは)ち大坂を越えて難波に往(まか)る。」
次回は、大海人皇子軍VS大友皇子軍(4)「最終戦-瀬田の戦いとその後」
主な参考文献:「日本書紀上-日本古典文学大系」(岩波書店)、「日本書紀(3)-新編日本古典文学全集」(小学館)、「壬申の乱-遠山美都男」(中公新書)、「全現代語訳 日本書紀-宇治谷 孟」(講談社学術文庫)、「天の川の太陽-黒岩重吾」(中央公論社)、
他
(C) Katumasa Ohbayashi